深紅の蒸気機関車は、近くで見るとさらに大きかった。
黒い煙が天井の下へゆっくり広がり、蒸気の白が人の足元を薄くなぞっている。
ホームには、ローブ姿の子どもたちと、その家族があふれていた。
名前を呼ぶ声、笑い声、泣きそうな声、荷物を引きずる音、籠の中で羽ばたく梟の音。
駅だった。
隠された神殿でも、魔術師だけの儀式場でもない。
生活があり、別れがあり、遅刻を気にする親がいる。
それが、かえって気味悪かった。
アニマの籠を持ち直し、トランクを引く。
細長い杖の箱は、すでにトランクの奥に収めてある。
取り出せる場所には置かない。
魔法省の確認訪問を思い出すだけで、駅や列車内で不用意に杖を振る気にはなれなかった。
監視構造が読めないうちは、手を出さない。
それは臆病ではなく、当然の判断だった。
車両の近くには、家族と別れを惜しむ子どもが何人もいた。
笑っている子もいれば、母親の袖を握って離さない子もいる。
大きな声で兄弟に何かを言い返している赤毛の少年もいた。
人が多い。
多すぎる。
早めに乗り込み、空いたコンパートメントを探して列車の後方へ向かった。
通路は狭く、荷物は邪魔で、あちこちで肩がぶつかる。
ようやく見つけた空き部屋にトランクを押し込み、アニマの籠を上の棚へ置いた。
窓側の席に座る。
外が見える。
人の流れも見える。
逃げ道も、扉も、廊下も視界に入る。
落ち着く、とまでは言えないが、他よりましだった。
窓の外では、親たちが手を振っている。
子どもたちがそれに応え、誰かが泣き、誰かが笑う。
汽笛が一度、遠くで鳴った。
荷物から小説を取り出し、読み始めたその時、コンパートメントの扉が少しだけ開いた。
黒い髪。丸い眼鏡。体に合っていない服。
そして、額にかかる前髪。
ローブ店で会った少年だった。
「ここ、空いてる?」
ハリー・ポッターは、少し遠慮がちに聞いた。
近くで見ると、やはり英雄には見えなかった。
重そうなトランクを引きずり、片手にはやけに目立つ白い梟の籠を持っている。
周囲の喧騒に少し疲れたような顔をしていたが、こちらを見つけた瞬間、目元がわずかに緩んだ。
見たことのある相手を見つけた時の顔だった。
「空いてる」
そう答えると、ハリーは少しほっとしたように中へ入ってきた。
「ありがとう」
「重いだろ」
「うん。かなり」
トランクを棚へ上げるのに少し手間取った。
手伝うべきか一瞬迷ったが、ハリーは歯を食いしばりながらどうにか押し込んだ。
自分でできたことに、少しだけほっとした顔をする。
この少年は、助けられることに慣れていない。
そう見えた。
ハリーは、向かい側の席に腰を下ろした。
真正面ではない。
少しだけ中央に寄った位置だった。
白い梟の籠は、窓とは反対側の棚に置かれる。
梟は賢そうな目でこちらを一度見て、それからハリーへ視線を戻した。
「ローブの店以来だね」
「そうだな」
そこで会話が止まった。
エリアスは本に視線を戻した。
ページの文字は追っている。
けれど、向かいの少年が落ち着かない様子で窓とこちらを見比べていることは分かった。
沈黙をどう扱えばいいのか、少し迷っている顔だった。
「……君、一人で来たの?」
「途中までは祖母と」
「そっか。僕は、さっき赤毛の子の家族に助けてもらった」
「壁の通り方か」
「うん。あれ、知らなかったら絶対分からないよ」
それは同意できた。
「分かるように作られていない」
「だよね」
ハリーは少しだけ安心したように笑った。
悪い笑い方ではない。
少なくとも、馬鹿にする笑いではなかった。
扉がまた開いた。
赤毛の少年が顔を出した。
そばかすのある顔。
少し古びたシャツ。
手にはくたびれた鞄と、何かが入った小さな箱を抱えている。
「ここ、空いてる?」
ハリーがうなずいた。
「うん」
赤毛の少年は中へ入ってきて、通路側の席に腰を下ろした。
荷物を置く動きは慣れている。
列車にも、こういう混雑にも、魔法界の子どもとしては慣れているのだろう。
「僕、ロン・ウィーズリー」
「ハリー。ハリー・ポッター」
赤毛の少年の目が丸くなった。
「おったまげー……本物のハリー・ポッター?」
ハリーの肩がわずかに固くなる。
ローブ店でも見た反応だ。
名前が先に走り、本人が後から追いつかされる。
エリアスは黙って窓の外を見た。
ハリー・ポッターという名前は、この社会では人間の名である前に記号なのだろう。
有名人。生き残った子。何かに勝った子。何かを背負わされた子。
本人の顔は、ただ困っているだけだった。
ロンはすぐに少し慌てたような顔になった。
「あ、いや、悪い。皆が言ってるからさ」
「いいよ」
ハリーはそう言ったが、いい顔ではなかった。
ロンの視線がこちらへ移った。
「そっちは?」
「エリアス・レンだ」
「レン?」
ロンは少し考える顔をした。
家名を知っているのか、それとも知らないが響きだけに引っかかったのか、判断しづらい。
「古そうな名前だな」
「らしい」
「らしい?」
「僕も最近知ったことが多い」
ロンは眉を寄せた。
「最近?」
「ダイアゴン横丁で」
言ってから、少しだけ舌の裏に違和感が残った。
ダイアゴン横丁。
ついこの間まで、エリアスにとっては「あの隠匿された街」でしかなかった場所だ。
それを今、自分は当然のように名前で呼んだ。
認めたつもりはない。
受け入れたつもりもない。
それでも言葉だけが、先に馴染み始めている。
ロンはその違和感には気づかなかったようだった。
「最近まで知らなかったって、もしかしてマグル育ち?」
「両親は小さい頃に他界して祖母と暮らしてきた。祖母は魔法を使えない。母はいわゆるマグル生まれだったらしい」
ロンの口が少し開いた。
どう反応していいか迷った顔だった。
嫌悪ではない。
驚きと少しの気まずさに近い。
「へえ。じゃあ、ハリーと同じで、魔法界のことあんまり知らないんだな」
「知らないことが多すぎる」
「それは、まあ、ハリーもだし」
ロンは少し安心したように言った。
魔法界のことを知らない者が二人になったからかもしれない。
ただし、ロンは時々こちらを見て、その度に少し違う顔をした。
もう一度汽笛が鳴った。
列車がゆっくり動き出す。
ホームの人々が流れていく。
手を振る親。走る子ども。泣きそうな顔の生徒。
やがて駅の屋根が後ろへ滑り、窓の外にロンドンの景色が流れ始めた。
ハリーは窓の外を見ていた。
その横顔には、不安と期待が同じくらい混ざっている。
ロンは、どこか得意そうに学校の話を始めた。
兄がいるらしい。何人も。
上の兄たちは優秀で、双子は厄介で、妹が家にいる。
話しながら、誇らしさと面倒くささと少しの劣等感が、表情の端に代わる代わる出てくる。
家族の多い人間の話し方だった。
エリアスは、それを聞きながら窓の外を見ていた。
景色が流れる。緑が増える。街が遠ざかる。
魔法界へ向かう列車なのに、窓の外はまだ普通のイギリスだった。
昼近くになると、通路から車輪の音が聞こえてきた。
菓子を積んだワゴンだった。
魔女が扉の前で笑い、菓子の名前をいくつも並べた。
どれも聞いたことがない。
ロンは持ってきた包みを少し恥ずかしそうに見た。
ハリーは一瞬迷ったあと、かなりの量を買った。
蛙の形をしたチョコレート。色とりどりの豆。羽根ペンのような菓子。
包み紙の色が目に痛い。
ハリーは、買った菓子を座席の間へ広げた。
「食べる?」
「いいの?」
ロンの顔が明るくなる。
「もちろん」
ハリーはそう言った。
人に分けることが嬉しいような顔だった。
ロンは遠慮なく手を伸ばし、説明を始めた。
カエルチョコにはカードが入っているらしい。
魔法使いの有名人のカード。
集めるものらしい。
ロンの声は、さっきよりも軽かった。
知っていることを教えられる相手がいるのが、嬉しいのだろう。
ハリーは包みを開けた。
カエルチョコレートは、箱から飛び出した。
本当に、飛び出した。
一瞬、コンパートメントの中の空気が止まった。
チョコレートの蛙は座席を蹴り、窓の方へ跳ねる。
ハリーが「あっ」と声を上げた。
ロンも手を伸ばしかけた。
エリアスの視線は、蛙の軌道を追っていた。
跳躍。着地。
再跳躍。
窓の隙間。
次の瞬間には、外へ消えていた。
「逃げたな」
エリアスが言うと、ロンは肩をすくめた。
「よくあるよ」
よくある、らしい。
エリアスは窓の外を見た。
菓子だ。
少なくとも、包装にはそう書かれていた。
だが、今の跳躍には明確な方向性があった。
偶発的に弾んだ動きではない。
反射でも、ただの仕掛けでもない。
逃走に近い。
「……意思があるのか?」
思わず口に出ていた。
ロンはきょとんとした。
「当たり前だろ。カエルチョコだよ?」
答えになっていなかった。
ハリーは目を丸くして、窓と箱を交互に見ている。
「本当に動くんだ」
「そういうもんだよ」
ロンは気軽に言った。
そういうもの。
魔法界では、あらゆる疑問がその一言で処理されるのかもしれない。
エリアスは箱の内側を見た。
薄いチョコレートの匂い。紙の匂い。
魔力の残り香のようなものは、ある。
だが、生物の気配ではない。
食品。
玩具。
疑似生物。
一時的な運動性を与えられた物体。
あるいは、食べられる形をした何か。
分類が定まらない。
成立している以上、法則はある。
ただ、その法則が見えない。
ロンはカードの方に興味を移していた。
「誰だった?」
ハリーは箱の中からカードを取り出した。
青い目をした白い髭の魔法使いが写っている。
写真ではない。
カードの中で動いている。
「アルバス・ダンブルドアだ」
ロンが言った。
「有名なの?」
ハリーが聞く。
ロンは本気で驚いた顔をした。
「有名なんてもんじゃないよ」
カードの中の人物は、微笑み、しばらくすると姿を消した。
ハリーが慌てた。
ロンはまた肩をすくめる。
「またすぐに戻ってくるよ」
よくある。そういうもの。戻ってくる。
ロンの世界は、それで足りているらしい。
ハリーの世界は、それを一つずつ驚いて受け取っている。
エリアスの世界では、そのすべてが未分類のまま増えていく。
しばらくすると、ロンは自分のペットを見せた。
くたびれたネズミだった。
名前はスキャバーズというらしい。
眠そうで、太っていて、あまり魔法界の動物らしいところはない。
ロンは少し不満そうに、その古さや兄からのお下がりであることを話した。
それから、色を変える魔法を試すと言い出した。
ハリーは素直に興味を示した。
列車内。未成年。監視構造不明。生体対象。
しかも、術者は自信がなさそう。
条件としては悪い。
「お陽さま、雛菊、とろけたバター。デブで間抜けなねずみを黄色に変えよ」
ロンは杖を構え、妙な節のついた言葉を唱えた。
呪文というより、韻を踏んだ歌に近い。
何も起きなかった。
スキャバーズは眠ったままだった。
ロンの耳が少し赤くなる。
「たぶん、フレッドとジョージにからかわれたんだ」
そう言って、すぐに言い訳の形を整えようとする。
兄たちの名を出す時、ロンの顔には怒りと慣れが一緒に出ていた。
からかわれることに腹を立てているが、それも家族の一部なのだろう。
「呪文じゃないのか?」
エリアスが聞くと、ロンは少しむっとした。
「たぶん違うんだろ」
「発音以前の問題か」
「なんだよ、それ」
「いや、今のは韻文に近かった」
「いん……何?」
ハリーが困ったように二人を見る。
ロンは面倒くさそうに顔をしかめた。
「お前、なんか難しい言い方するな」
「そうか」
「そうだよ」
その時、コンパートメントの扉が開いた。
女の子が立っていた。
ボサボサに伸びた茶色の髪。
大きな前歯。
背筋を伸ばし、どこか急いでいるような顔。
後ろには、丸い顔の少年が不安そうに立っている。
「あなたたち、ヒキガエルを見なかった? ネビルのがいなくなったの」
早口だった。
問いかけというより、用件の提示だった。
ロンが首を振る。
「見てない」
女の子の目が、ロンの杖へ移った。
「魔法を使っていたの?」
ロンが少し身構えた。
「使おうとしただけだよ」
「見せて」
ロンはもう一度、例の言葉を唱えた。
当然、何も起きない。
女の子は、少しだけ顎を上げた。
「それ、本当に呪文なの?」
ロンの耳がさらに赤くなった。
「兄さんたちが――」
「たぶん、違うと思うわ。だって、そんな呪文教科書のどこにも載ってなかったもの」
悪意はない。
ただ、正しいと思ったことをそのまま言っている。
その正しさが、ロンの耳をさらに赤くしていることには、まだ気づいていないようだった。
女の子の視線が、ハリーへ移った。
「あなた、ハリー・ポッター?」
ハリーが少し戸惑ってうなずく。
「本当に? いろいろ読んだわ。あなたのこと、本に出てたもの」
ハリーの表情が固まる。
まただ。
名前が先に来る。
本人が後から追いつかされる。
女の子は、悪気なく続けた。
「私はハーマイオニー・グレンジャー。あなたたちは?」
自己紹介も早い。
自分の名を告げることに、ほとんど迷いがない。
ロンは少し面倒くさそうに名乗った。
ハリーも続く。
「エリアス・レンだ」
ハーマイオニーの目がこちらへ向いた。
「あなたも一年生?」
「そうだ」
「もう教科書は読んだ?」
「読んだ」
その返事に、ハーマイオニーの目が少し明るくなった。
「全部?」
「一通りは」
「私も。やっぱり読んでおくべきよね。授業で遅れたくないもの」
ロンが小さく、つぶやいた。
「嫌な予感がする」
ハリーはまだ話についていけていない。
ハーマイオニーはハリーの眼鏡に気づいた。
「あなたの眼鏡、壊れてるわ」
ハリーが少し慌てて触る。
「うん、ちょっと」
「私、直せると思う」
彼女は杖を取り出した。
その動作に迷いがない。
エリアスの指が、膝の上で止まった。
列車内。未成年。他人の所有物。修復。構造情報不明。
条件が多すぎる。
だが、ハーマイオニーの顔に迷いはなかった。
教科書で読んだ。発音を覚えた。杖を向ける。正しく唱える。
それだけで十分だと信じている顔だ。
Oculus Reparo
呪文が唱えられた。
ハリーの眼鏡の傷が消えた。
あまりにも簡単に。
ロンが口を開ける。
「すげえ」
ハリーも驚いたように眼鏡を外し、見直した。
「ありがとう」
ハーマイオニーは少し得意そうにした。
「簡単よ。ちゃんと練習したもの」
エリアスは、直った眼鏡を見ていた。
割れ目。歪み。傷。
それらが消えている。
戻ったのか。修復されたのか。破損前の構造を参照したのか。眼鏡という対象が持つ「正しい形」へ、世界が補正したのか。
分からない。
分からないまま、現象だけが成立している。
「それは、君が制御したのか。杖が応じたのか」
声に出していた。
ハーマイオニーの眉が寄った。
「それ、どういう意味?」
「眼鏡の構造を理解して直したわけじゃないだろう。破損前の形をどこから参照した?」
一瞬、車輪の音だけが響いた。
ハリーは眼鏡を持ったまま固まっている。
ロンは、あからさまに嫌そうな顔をした。
ハーマイオニーは、少し頬を赤くした。
「正しい呪文を、正しく唱えたのよ」
「それは手順だ」
「手順は大事でしょう」
「大事だ。でも、理論ではない」
ハーマイオニーの目がさらに鋭くなる。
「教科書に載っているわ」
「この教科書には、現象が起きる条件だけ書かれている。現象の構造を説明しているわけじゃない」
「あなた、先生より分かっているつもりなの?」
「分かっていないから聞いている」
本当に、そうだった。
けれど、ハーマイオニーにはそう聞こえなかったらしい。
彼女の唇がきゅっと結ばれる。
努力を否定された時の顔だった。
「少なくとも、眼鏡は直ったわ」
「それは結果だ」
「なら、成功よ」
「成功と理解は違う」
ロンが耐えきれないという顔をした。
「うわ、嫌な奴が二人になった」
ハリーが小さく吹き出しかけ、すぐに気まずそうに咳払いした。
ハーマイオニーはロンを睨んだ。
「誰のこと?」
「いや、別に」
ロンは目を逸らす。
ハリーは眼鏡をかけ直した。
「でも、助かったよ。ありがとう」
その一言で、空気が少しだけ戻った。
ハーマイオニーの肩から力が抜ける。
ハリーの礼には、素直に応じられるらしい。
だが、こちらへ向ける目はまだ少し硬かった。
「じゃあ、私、そろそろ行くわ。あなたたちも、ホグワーツに着く前にはローブに着替えた方がいいわよ」
ハーマイオニーはそう言い、ネビルを連れて扉の方へ戻った。
出ていく直前、もう一度こちらを見た。
「あと、授業では、先生の説明をちゃんと聞いた方がいいと思う」
「そのつもりだ」
「ならいいわ」
扉が閉まった。
ロンは大きく息を吐いた。
「なんなんだ、あいつ」
ハリーは少し困ったように笑った。
「でも、眼鏡は直してくれた」
「それはそうだけどさ」
ロンはちらりとこちらを見る。
「お前も、なんか似てるな」
「誰に」
「あの子に。違うけど、似てる。嫌な感じの方向が」
「分類が雑だ」
「そういうとこだよ」
ハリーは今度こそ少し笑った。
その笑いには、馬鹿にする響きはない。
知らない場所で、変な人間が二人増えた。
それでもハリーの笑い方に嫌な硬さはなかった。
悪くない。
午後になり、景色はさらに田舎へ変わっていた。
窓の外には畑と丘が流れ、空の色が少しずつ濃くなっていく。
コンパートメントの中には菓子の包み紙が散らばり、三人とも黒いローブに着替えていた。
袖口も襟元も、まだ体に馴染まない。
ロンは少し眠そうになっていた。
ハリーはカードを見たり、ロンの話を聞いたりしている。
その時、扉が乱暴に開いた。
金髪の少年が立っていた。
ドラコ・マルフォイ。
後ろには、大きな少年が二人いる。
どちらも無口で、扉の幅を狭く見せるほど体が大きい。
マルフォイの目が、まずハリーへ向いた。
次にロン。
そして、エリアス。
一瞬だけ、視線が止まった。
ローブ店での記憶が残っているのだろう。
レンという姓。
父はいないと答えたこと。
こちらがへりくだらなかったこと。
マルフォイは、こちらを見たまま一拍だけ遅れた。
すぐに視線をハリーへ戻したが、その短い間だけ、顔からいつもの作り物めいた余裕が薄れていた。
「やあ、ポッター」
マルフォイは、わざとらしく言った。
ハリーの顔が少し固くなる。
「学校に来る前に、知っておいた方がいいことがある。付き合う相手は選んだ方がいい」
その目がロンへ移る。
ロンの耳が赤くなった。
今度は恥ずかしさではない。
怒りだ。
マルフォイの言葉には、線を引く癖がある。
上と下。古い家とそうでない家。選ぶ側と選ばれる側。
ローブ店で見たものと同じだ。
彼は血統と家名を、社会的な武器として使う。
父の名前、家の名前、育った場所。
それらを自分の力のように扱う。
分かりやすい。
子どもとしては、あまりにも分かりやすい。
マルフォイは手を差し出した。
ハリーは、その手を見た。
短い沈黙。
コンパートメントの空気が少し冷えた。
ハリーは、マルフォイではなくロンを見た。
それから、もう一度マルフォイを見る。
「自分で選べると思う」
言葉は短かった。
だが、十分だった。
ロンの顔がぱっと明るくなる。
マルフォイの口元が硬くなる。
その瞬間、ハリー・ポッターという少年の輪郭が少しだけ見えた。
有名人扱いされて戸惑う少年。
魔法界を知らない少年。
それでも、差し出された手の意味は分かる少年。
ハリーは人を見る。
少なくとも、この場ではそうだった。
マルフォイの視線が、今度はこちらへ向いた。
「レン。君はどう思う?」
選別の誘いだった。
あるいは、こちらがどちら側に立つかの確認。
ロンが身構える。
ハリーもこちらを見る。
エリアスは、窓の外から視線を戻した。
「今の話なら、ハリーが答えた」
マルフォイの眉がわずかに上がる。
「君の意見を聞いたんだけど」
「友人を選ぶ基準について?」
「そうだ」
「まだ判断材料が少ない。ただ、君は相手本人より先に家名を見ているように見える」
ロンが小さく「は?」という顔をした。
マルフォイも少し拍子抜けしたようだった。
「変わった奴だな」
「よく言われる」
「スリザリンに入りそうな顔をしているから、もう少し見る目があるかと思っていたけど」
「まだ組み分けされていない」
「でも、そういう匂いはする」
匂い。
面白い言い方だった。
マルフォイは、血統を嗅ぎ分けようとしている。
ロンは、態度を嗅ぎ分けようとしている。
ハリーは、人を見ようとしている。
ハーマイオニーは、正答を探そうとしている。
同じ車内にいても、見ているものがまるで違う。
後ろの大柄の少年のどちらかが、退屈そうに足を動かした。
床がわずかに鳴る。
マルフォイはハリーへ視線を戻した。
「後悔するよ」
そう言い残して、三人は出ていった。
扉が閉まると、ロンが大きく息を吐いた。
「嫌な奴だ」
「知り合い?」
ハリーが聞く。
「マルフォイの家の名前は知ってる。父さんがよく……いや、いい」
ロンはそこで言葉を切った。
家の話、父の仕事、魔法界の家同士のあれこれ。
言いたいことはありそうだったが、初対面で全部出すには重すぎるのだろう。
ハリーは、少しだけ考える顔をした。
「僕、ああいうのは嫌だ」
「それでいいんじゃないか」
エリアスが言うと、ハリーがこちらを見る。
「そう思う?」
「少なくとも、分かりやすい」
「分かりやすい?」
「相手をどう扱うかが、言葉より先に出ている」
ハリーは少しだけ黙った。
その沈黙は、不快ではなかった。
何かを確かめている沈黙だった。
ロンが横から言った。
「やっぱり、お前の言い方って面倒くさい」
「そうか」
「そうだよ。でも、今のはちょっと分かる」
それだけ言って、ロンは菓子の包み紙を一つ丸めた。
列車は走り続ける。
窓の外は、夕方の色に変わり始めていた。
やがて、通路が騒がしくなった。
上級生らしい声が、そろそろ着くぞ、と言って通り過ぎる。
誰かが慌ててトランクを開け、ローブを引っ張り出す音がする。
廊下で着替えるな、と別の声が叱っていた。
窓の外は暗くなり始めていた。
遠くに、黒い山の輪郭が見える。
空気が冷えていく。
列車の速度が少しずつ落ちる。
ハリーは窓に顔を近づけている。
ロンは慣れたように荷物をまとめている。
扉の向こうでは、ハーマイオニーの早口がどこかで聞こえた気がした。
マルフォイの姿は見えない。
同じ列車。
同じ一年生。
同じ学校へ向かう子どもたち。
けれど、見ているものはそれぞれ違う。
列車が大きく揺れた。
アニマが籠の中で短く鳴いた。
窓の外に、暗い湖の気配が広がっている。
会話の熱だけが、まだコンパートメントの中に残っていた。
ホグワーツは、もう近い。