「レン・エリアス」
名前が呼ばれた。
大広間の音が、少し遠くなる。
椅子の上の帽子だけが、急に近く見えた。
待機列には、もうほとんど人が残っていない。
前へ出るための空間が、ぽっかりと空いていた。長机の列、浮かぶ蝋燭、教師席、夜空に見える天井。すべてが同じ場所にあるのに、そこだけ距離の感覚が少し狂っている。
足元の石が硬い。
歩き出す。
グリフィンドールの卓で、ハリーがこちらを見ていた。
ロンも、ハーマイオニーもこちらを見ている。
ハリーの顔には好奇心があり、ロンの肩には少し力が入っていた。
ハーマイオニーは、何かを考えるように眉を寄せている。
誰も答えを知らない。
それでも、それぞれ別のものを待っているようだった。
スリザリンの卓では、マルフォイがこちらを見ていた。
背筋を伸ばし、口元に薄い笑みを浮かべている。結果を待っているというより、自分の予測が証明される瞬間を待っている顔だった。
椅子の前に立つ。
マクゴナガル教授が帽子を持ち上げた。
古びた布が、灯りを受けて影を作る。つぎはぎの縫い目。すり切れた縁。先ほどまで歌っていた口のような裂け目。
あれを頭に載せる。
その事実が、ひどく不快だった。
椅子に座る。
帽子が頭に載せられた。
暗くなる。
布の匂い。
古い埃の匂い。
汗と年月の匂い。
大広間のざわめきが、水の底へ沈んでいく。
拍手も、囁きも、遠い。
かわりに、頭の内側へ何かが触れた。
声がした。
耳ではない。
頭の内側に、直接置かれた声だった。
『ふむ』
近い。
近すぎる。
反射的に、呼吸が細くなった。
背骨へ流す。
胸へ回す。
肩へ渡す。
指先へ逃がす。
いつもの経路を辿ろうとして、途中で止まる。
ここは肉体の内側ではない。
もっと浅く、もっと近い。
皮膚のすぐ裏を、誰かの指先で撫でられているような感覚だった。
『嫌がらなくてもよい。誰もが通る道じゃ』
誰もが通るから許される、という理屈はない。
『そう来るか』
帽子の声は、少し面白がっているようだった。
誰だ。
『帽子じゃ』
そういう意味ではない。
『分かっておる』
思考の表面を、何かが撫でた。
前世の講義室。
薄暗い廊下。
冷たい声。
焼けた匂い。
左目の熱。
根源という言葉。
届かなかった夜。
反射的に閉じる。
記憶を畳む。感情を沈める。呼吸を薄くする。
意識の表面だけを残して、奥へ触れさせない。
『よく心を閉じている。整えている。訓練の跡もある』
声は穏やかだった。
『だが、閉じていれば見えないと思うのは、少し甘いのう』
不快だった。
恐怖より先に、不快だった。
他人の思考へ触れる。
記憶の縁を撫でる。
隠したものの形を、言葉にする。
これを、子ども全員に行っている。
この学校は、正気か。
『正気じゃとも。少なくとも、千年ほどはこれでやっておる』
千年。
冗談のような時間を、帽子は当然のように言った。
『さて。君は難しい。実に難しい』
難しい?
『鷲は君を呼んでおる。知識を積み、構造を読み、誰も気づかぬ裂け目を見る。レイブンクローならば、君はよく学ぶじゃろう』
レイブンクロー。
列車内でハーマイオニーが話していた知識の寮。
賢き者。学びを愛する者。
それだけ聞けば、たしかに近い。
『だが、違うな』
帽子の声が、少し低くなった。
『君は、ただ知りたいわけではない』
息が止まった。
『知識を愛している者の頭ではない。君は理解を使って、どこかへ届こうとしている』
違う。
そう言おうとした。
だが、言葉が出ない。
『違わんよ』
帽子の声は柔らかい。
柔らかいのに、逃げ場がない。
『理解すれば満足するのではない。理解した先へ手を伸ばす。届かぬなら、やり直す。壊れても、焼けても、戻ってでも、届こうとする』
喉の奥が冷えた。
届きたい。
その言葉は、出されるまで形になっていなかった。
いや、形にしないようにしていた。
知りたい。
理解したい。
解析したい。
その言葉なら、まだ安全だった。
だが、帽子はそこでは止まらない。
『鷲は高く見る。だが君は、見るだけでは終わらない』
大広間のざわめきが、遠くで揺れている。
『蛇は深く潜る。届くまで戻らない』
スリザリン。
その名が、頭の中で形を持った。
血統主義。
マルフォイ。
値踏み。
選別。
古い家名。
暗い地下。
好きな言葉ではない。
ローブ店で聞いたマルフォイの言葉が浮かぶ。
上と下。古い家と新しい者。付き合うべき相手と、そうでない相手。
血を、自分の高さを示す道具として使う声。
好きになれそうにはない。
『それだけがスリザリンではない』
帽子が言った。
思考へ返事をするな。
『君が考えるからじゃ』
うるさい。
『ふむ。反発は強い。だが、否定は弱い』
その通りだった。
拒む理由はある。
スリザリンという名にまとわりつく社会的な臭い。
血統への薄い傲慢。
選別する側に立つ者たち。
だが、帽子が見ているものはそこではない。
野心。執着。目的のために深く潜る性質。届かないことを受け入れられない欠落。
それは、否定できなかった。
ハリーは拒んだ。
さっき見た長い沈黙。
帽子の下で、彼は何かを拒んだのだろう。
自分が行きたくない場所へ、行かないことを選んだ。
では、自分は。
これは嫌いだ。
だが、違うとは言えない。
その差が、ひどく重かった。
『決まりじゃな』
待て。
『待たん』
帽子の声が、外へ抜けた。
「スリザリン!」
大広間の音が戻った。
拍手が起きる。
グリフィンドールの卓で、ハリーの目がわずかに大きくなっていた。
驚き。
落差。
たぶん、そういうものが先に来た顔だった。
それでも、嫌悪には見えなかった。まだ分からないものを、分からないまま見ている顔だ。
ロンは明らかに身構えていた。
さっきまでより肩が硬い。
口元が少し引き結ばれている。
けれど、列車内で交わした言葉があるせいか、マルフォイを見る時のような単純な拒絶ではなかった。
ハーマイオニーは、眉を寄せたままこちらを見ていた。
納得できない結果を前にした時の顔に近かった。
スリザリン卓では、マルフォイが少しだけ笑った。
やはり、という顔だった。
帽子を外す。
大広間の光が戻る。
蝋燭が揺れ、夜空に見える天井が広がり、数百人分の視線が肌に戻ってくる。
立ち上がった時、教師席の方から視線を感じた。
顔を向けると、中央に座る老人と目が合った。
半月型の眼鏡。
長い銀の髭。
そして、キラキラとした青い目。
優しげに見える。
少なくとも、周囲の生徒ならそう受け取るのだろう。
だが、その光は少し深すぎた。
水面のように揺れているのに、底が見えない。
笑っているようで、測っているようでもある。
次の瞬間、老人はほんのわずかに目を細めた。
それだけだった。
視線を外し、スリザリンの卓へ向かう。
足元の石が硬い。
さっきまでと同じ床のはずなのに、歩く先が変わっただけで、音まで違って聞こえる。
グリフィンドールの卓はまだざわめいている。
スリザリンの卓は、拍手をしている。
だが、熱の質が違った。
歓迎はある。
ただし、無条件ではない。
見る。測る。位置を決める。
そういう拍手だった。
席に近づくと、何人かの上級生が少しだけ場所を空けた。
声を張り上げる者はいない。
笑みはある。
だが、それは新しい仲間を抱き込む笑みというより、新しい駒の形を確かめる笑みに近かった。
マルフォイが近くの席から言った。
「やっぱりね」
「何が」
「そういう匂いがした」
匂い。
列車でも聞いた言葉だ。
「君は、何でも匂いで判断するのか」
マルフォイは少しだけ眉を動かした。
「たとえばの話だよ」
「なら、例えが雑だ」
近くの上級生が小さく笑った。
マルフォイの口元が一瞬だけ固くなる。
怒ったわけではない。
ただ、思った通りの反応が返ってこなかったことに、少し引っかかったようだった。
「まあ、スリザリンならそのうち分かるよ」
「何を」
「誰と付き合うべきか」
またそれだ。
答えずに席へ座る。
拒絶するほどの言葉ではない。
受け入れるほどの言葉でもない。
保留でいい。
その時、隣の方から静かな声がした。
「あなた、レイブンクローだと思っていたわ」
声の主は、隣に座っていた金髪の少女だった。
淡い金髪。
白い肌。
灰色とも青ともつかない、冷えた色の目。
騒ぐわけでも、媚びるわけでもない。
背筋は自然に伸びていて、視線はこちらへまっすぐ向いている。
マルフォイのような値踏みではない。
ロンのような警戒でもない。
ハーマイオニーのような分類でもない。
感情より先に、人を見ている目だった。
「僕も少しそう思った」
少女は、ほんのわずかに瞬きをした。
「ダフネ・グリーングラスよ」
「エリアス・レンだ」
「知っているわ。さっき呼ばれていたもの」
それだけ言って、ダフネは大広間の前へ視線を戻した。
やがて、最後の生徒が帽子を外した。
「スリザリン!」
帽子の声が大広間に響く。
スリザリンの卓から、抑えた拍手が起きた。
黒髪の少年は、歓声にも大きく反応しなかった。
椅子から降りる動きはゆっくりで、急いで仲間の中へ飛び込むというより、自分の座る場所を選びに来るようだった。
少年はスリザリン卓へ歩いてきた。
空いている席を一度だけ見て、エリアスの斜め前に腰を下ろす。
それだけだった。
名乗らない。
話しかけてもこない。
ただ、周囲の空気に自分の体を静かに置いた。
その座り方だけで、彼がこの場所の作法を知っていることは分かった。
拍手が収まり、四つの長机のざわめきが広がっていく。
教員席の中央で、老人が立ち上がった。
アルバス・ダンブルドア。
名前は知っている。
カードの中で動いていた老人。
ロンが、有名なんてもんじゃない、と言っていた魔法使い。
実物は、カードよりも奇妙だった。
長い銀の髭。
半月型の眼鏡。
星のような刺繍が入ったローブ。
そして、さっきと同じ、底の見えない青い目。
大広間が静かになった。
ダンブルドアは、両手を軽く広げた。
「新入生の諸君、ようこそホグワーツへ。在校生のみなも腹を空かせて待ちわびておるじゃろうが、歓迎会を始める前に、二言、三言、言わせていただきたい」
声は柔らかい。
だが、広い大広間の端まで自然に届く。
「では、いきますぞ」
何を言うつもりなのか、大広間の空気がわずかに傾いた。
「そーれ! わっしょい! こらしょい! どっこらしょい! 以上!」
一瞬、意味が分からなかった。
周囲の新入生たちも同じだったらしい。
何人かはぽかんとしている。
遠くのグリフィンドール卓で、ハリーも目を瞬かせていた。
ロンは、慣れているのか慣れていないのか分からない顔で笑いそうになっている。
ハーマイオニーは明らかに困惑していた。
上級生たちは違った。
笑う者。
拍手する者。
互いに肩をすくめる者。
教師席でも、何人かの教授が微妙な顔をしている。
意味のない言葉。
少なくとも、表面上はそうだ。
だが、場は切り替わった。
組分けの緊張がほどけ、新入生たちの視線が教員席から長机へ落ちる。誰かが笑い、誰かが息を吐く。
意味のない言葉を使って、意味のある場の切り替えを行った。
そういう儀式なのかもしれない。
次の瞬間、長机の上になんの前触れもなく料理が現れた。
皿の上に肉。
焼きじゃがいも。
ソーセージ。
パン。
野菜。
湯気。
香り。
突然現れた料理に、また新入生たちが息を呑む。
だが、上級生たちは当然のように取り分け始めていた。
スリザリンの卓は、他の卓より静かだった。
静かだが、冷たいわけではない。
笑い声はある。
会話もある。
上級生が下級生へ皿を回し、誰かがパンを取り、誰かが飲み物を注いでいる。
ただ、騒音にはならない。
声の大きさも、笑うタイミングも、誰に席を譲るかも、誰の話を遮らないかも、ほとんど決まっているように見えた。
空気がある。
目に見えないが、皆がそれを知っている。
グリフィンドールの卓は遠目にも騒がしい。
ハリーとロンは並んで座っていた。ロンが身振りを交えて何かを説明し、ハリーが驚いた顔で聞いている。
ハーマイオニーはその近くで、食事をしながらも落ち着きなく大広間を見回していた。
こちらは違う。
スリザリンでは、騒がないことが冷たさではない。
静かに話し、静かに測り、静かに位置を決めている。
マルフォイは、その空気に何の苦労もなく座っていた。
高くも低くもない声で話し、必要なところで笑い、名前を出す時だけ少し顎を上げる。
自分の立ち位置を疑ったことがない者の座り方だった。
ダフネは、ほとんど喋らなかった。
食事の手つきは丁寧で、周囲の会話に入る時も一言だけ。
だが、聞いていないわけではない。
淡い金髪の横顔は静かで、冷えた色の目だけが、ときどき人から人へ移る。
マルフォイのように家名を拾っているのではない。
誰が何を言ったかより、言った時に何が動いたかを見ているような目だった。
「食べないのか」
斜め前から、先ほどの最後に組分けされた少年が言った。
彼の皿には、肉が一切れだけ残っている。姿勢は崩れているわけではないのに、どこか力が抜けていた。
周囲に合わせているのではなく、自分の場所を先に決めているような座り方だ。
「食べている」
「見てる時間の方が長いだろ」
「そう見えるか」
「見えるね」
彼はそれ以上追及しなかった。
ただ、面白いものを見つけた時のように、口元だけを少し動かした。
会話は自然に家名の話へ流れていった。
誰がどの家の出か。
父親がどこに勤めているか。
叔父が誰とつながっているか。
上の兄弟がどの寮にいるか。
どの家と昔から付き合いがあるか。
それは自慢というより、位置情報だった。
どの家の子か。
誰とつながっているか。
どの程度古いか。
どこまで内側か。
普通の自己紹介の形で、格付けの材料が置かれていく。
「レン家と言えばかなり古い名だよね」
マルフォイが言った。
「父方は、そうらしい」
「父方?」
その聞き返しは、軽かった。
軽いが、周囲の耳が少しだけこちらへ向く。
「母はマグル生まれだった。祖母はマグルだ」
蝋燭の火が揺れる音まで聞こえそうだった。
大広間の中で、スリザリンの卓の一角だけが、一拍遅れたように止まった。
誰も叫ばなかった。
誰も席を立たなかった。
誰も杖を抜かなかった。
ただ、空気が止まる。
近くの上級生が、グラスへ伸ばしかけた手を止めた。
誰かのフォークが皿に触れ、細い音を立てた。
斜め前の黒髪の少年の口元だけが、わずかに動く。
ダフネの視線が、こちらへ戻った。
マルフォイは笑わなかった。
困惑。苛立ち。理解不能。
その三つが、まだ形になる前の顔だった。
「それを、ここで言うのか?」
声は低かった。
「聞かれたから答えた」
「普通は、言い方を選ぶ」
「事実は変わらない」
また沈黙が落ちた。
今度は、さっきより少し硬い。
マルフォイの目が細くなる。
敵意というより、なぜそう振る舞うのか分からないという目だった。
「君は、レン家の名前を持ってるんだろ」
「ああ」
「なら、分かるはずだ」
「何を」
「そういう話を、どう扱うべきか」
これは罵倒ではない。
政治主張でもない。
この寮では当然の作法を、なぜ守らないのかという問いだった。
「隠した方が、都合がいいという話か」
マルフォイは少しだけ顎を上げた。
「言い方だよ」
「母を恥じる言い方はしない」
それで、完全に止まった。
遠くのグリフィンドール卓の笑い声が、やけに明るく聞こえた。
その沈黙の中で、誰かが小さく吹き出した。
斜め前の黒髪の少年だった。
大きな笑いではない。
咎めるような笑いでもない。
ただ、予想していなかったものを見た時の、短い息だった。
マルフォイの眉がわずかに動く。
黒髪の少年は、気にした様子もなくエリアスを見た。
「隠さないんだ」
「隠す理由がない」
「へえ」
少年の口元が、少しだけ上がる。
「面白いな、君」
「面白がられるようなことを言ったつもりはない」
「そこが面白い」
そこで初めて、少年は名乗った。
「ブレーズ・ザビニ」
「エリアス・レンだ」
「知ってる。さっき呼ばれてた」
その短いやり取りで、止まっていた空気が少しだけ動いた。
完全に緩んだわけではない。
だが、誰かが笑ったことで、沈黙は罰ではなく観察に変わった。
マルフォイはまだ納得していない顔をしていた。
ザビニは面白がっている。
周囲の上級生たちは、言葉を挟まずにこちらを見ている。
その中で、ダフネだけは別の場所を見ていた。
左目の周り。
火傷痕。
皮膚の引きつれ。
そして、今の会話の間もほとんど乱れなかった呼吸。
そこを見ている。
誰もが母の血に反応している中で、彼女だけが傷を見ていた。
ダフネは何も言わない。
ただ、灰色とも青ともつかない目が、一度だけこちらの左目の横で止まった。
その後、視線は顔全体へ戻る。
感情の温度を測られたような気がした。
不快ではなかった。
だが、楽でもない。
マルフォイが何かを言いかけた時、教師席の方で杯が鳴った。
大広間の空気が、また別の方向へ引き戻される。
食事の終わりだった。
料理の皿が、現れた時と同じように消えた。
残ったのは、満腹のざわめきと、少し眠たげな空気だった。
ダンブルドアが再び立ち上がった。
大広間は、ゆっくりと静かになっていく。
「さて、皆、よく食べたようじゃ。諸君が眠りにつく前に、いくつか注意しておきたいことがある」
青い目が、半月型の眼鏡の奥でキラキラと光った。
「新入生諸君に注意しておくが、敷地内の森は生徒の立ち入りが禁止されている。上級生も何人か、それを思い出した方がいい者がおるようじゃが」
どこかの卓で、数人が小さく身じろぎした。
教師席の一部が、そちらへ視線を向ける。
冗談のように聞こえるのに、注意としては十分機能していた。
「それから、管理人のフィルチさんから、休み時間の間に廊下で魔法を使わないようにという要望があった。また、今年度持ち込みが禁止される品物リストは、フィルチさんの部屋のドアに貼ってあるので確認するように。ゾンコのイタズラ専門店の商品を含め、なかなか興味深い一覧になっておる」
上級生の何人かが笑った。
マクゴナガル教授の顔は笑っていなかった。
「最後に、今年度に関しては、右側の三階の廊下は立ち入り禁止じゃ。悲惨な死に方をしたくない者は、近づかぬように」
大広間のあちこちで、困惑した沈黙が落ちた。
悲惨な死に方。
学校の注意事項に入る言葉ではない。
少なくとも、普通の学校なら。
ダンブルドアは、まるで夕食後の茶菓子の話を終えたように微笑んだ。
「以上。では、各寮の監督生に従って、寝室へ向かいなさい」
椅子の音が、広間中で鳴り始めた。
スリザリンの卓では、騒ぐ者はいなかった。
先に上級生が立つ。次に下級生が自然と列へ入る。一年生は流れの後ろに置かれる。
誰も説明していないのに、そういう形になっていた。
「一年、こっちだ。遅れるなよ」
大柄な上級生が言った。
マーカス・フリント。
監督生のバッジが、ローブの胸元で光っている。
顔つきは荒く、歩き方にも妙な圧があった。だが、雑に見えて、列の乱れや遅れにはすぐ反応している。
「廊下で騒がない。階段では広がらない。上級生の前を塞がない」
その隣にいた女子生徒が、落ち着いた声で続けた。
ジェマ・ファーレイ。
同じく監督生のバッジをつけている。フリントほど大きくも威圧的でもないが、声はよく通った。
「寮の合言葉は、談話室で伝えます。他寮の生徒の前で口にしないこと。忘れた場合は、監督生か同室の者へ確認しなさい。廊下で騒いで助けを待つような、みっともない真似はしないように」
何人かの一年生が、うなずいた。
ファーレイの視線が一年生の列をなぞる。
大きく叱られているわけではない。
だが、全員が少しだけ背筋を伸ばした。
フリントが先に歩き出す。
「ついて来い。迷ったら置いてくぞ」
冗談なのか本気なのか分かりにくい声だった。
だが、誰も笑わない。
そういうものなのだろう。
大広間の熱が遠ざかる。
廊下へ出ると、石の冷たさが戻ってきた。
階段を下りる。
また下りる。
大広間の灯りと声は上へ残り、足元には地下へ向かう湿った空気が増えていった。
壁の松明が、通り過ぎるたびに影を伸ばす。
肖像画がいくつかこちらを見た。中には、スリザリンの列だと分かると、わずかに顎を引くような絵もあった。
城そのものが、寮ごとの動きを知っているようだった。
ロンやハリーのいるグリフィンドールの生徒たちは、別の階段へ流れていった。
赤と金のネクタイが、松明の光の中で遠ざかる。
こちらは下へ向かっている。
湖の方へ。
石の腹の中へ。
道は複雑だった。
何度も曲がり、下り、冷たい廊下を抜ける。初見で覚えられる構造ではない。
だが、上級生たちは迷わない。
歩く速さも一定で、どこで黙るべきかも知っている。
ここは、学校の廊下である前に、共同体の内部通路だった。
やがて、石壁の前でフリントが止まった。
何もない壁に見えた。
だが、ファーレイが一歩前に出て、低い声で合言葉を告げると、石が沈むように動いた。
入口が開く。
一年生たちの間に、小さな息が漏れた。
「合言葉は定期的に変わります」
ファーレイが言う。
「聞き逃した者は、後で確認すること。忘れるのは構いません。忘れたまま騒ぐのは、寮の恥です」
フリントが鼻を鳴らした。
「それと、他寮の生徒を連れ込むな。特にグリフィンドールだ。見つけたら俺が投げ出す」
今度は何人かが小さく笑った。
入口の奥は、談話室だった。
最初に感じたのは、色だった。
緑。
銀。
そして、深い水底の青。
部屋は低く、横に広い。
壁は石造りで、窓のような部分の向こうに暗い湖水が揺れている。
実際に湖の底なのか、そう見せるための術なのかは分からない。
だが、窓越しに差し込む青白い光は、本物の水の色に見えた。
ゆっくりと揺れる水影が、天井と床を静かに撫でていく。
石壁には淡い青が流れ、銀の装飾は冷たい月光のように瞬いていた。
水底なのに、暗いだけではない。
静かで。
冷たく。
どこか眠るように美しい。
暖炉には火がある。
だが、その火は部屋を明るく照らすというより、青い影の中に橙色の深みを落としていた。
熱はある。
けれど、部屋全体を開くための火ではない。
奥へ沈ませるための火に見えた。
古い椅子。
重そうな机。
銀の装飾。
磨かれた木材。
深い緑の布地。
水光を受けて鈍く光る床。
高価だが、見せびらかすための派手さではない。
長く使われ、手入れされ、誰がどの席へ座るかまで歴史で決まっているような部屋だった。
静かな完成度。
その言葉が浮かんだ。
「ここがスリザリン談話室です」
ファーレイが言った。
「一年生は、まず部屋割りを確認します。荷物はすでに運ばれています。寮内での問題は、まず監督生へ。教授へ直接持ち込む前に、解決できることは寮内で解決するのが基本です」
寮内で解決する。
その言い方は、ただの学校生活の規則ではなかった。
身内の問題を外へ出さない、という意味が含まれている。
フリントが続ける。
「点を稼げとは言わん。だが、くだらないことで減点されるな。スリザリンはここ数年も寮杯を取り続けている。お前らの年で落とすなよ」
一年生たちの何人かが、わずかに緊張した。
「授業のことは、上級生に聞け」
ファーレイの声に戻る。
「教授ごとの課題傾向、必要な本、実技で失敗しやすい点、そういうものは寮に蓄積されています。ただし、教えてもらうには礼儀が必要です。借りたものは返す。助けてもらったら、いつか別の形で返す。これは覚えておきなさい」
なるほど。
情報が資産として扱われている。
教授の嗜好。
課題。
過去問。
推薦。
家同士のつながり。
貸し借り。
この寮は、知識を本棚に積むのではなく、人間関係の網に流して維持している。
そして、六年連続の寮杯獲得。
他寮に比べて強いはずだった。
説明が終わり、女子一年生はファーレイに連れられて別の通路へ向かった。
ダフネも、その列に入る。
すれ違う一瞬、彼女の視線がまた左目の傷に触れた。
だが、今度も何も言わない。
男子一年生たちも動きかけた時、フリントの声が飛んだ。
「レン」
足が止まる。
「お前は少し残れ」
談話室の空気が、ほんの少しだけこちらを見る。
マルフォイが振り返った。
ザビニも足を止めかけたが、フリントの視線を見て、そのまま少し先へ進んだ。
「先に行ってろ」
フリントが言うと、男子一年生たちは廊下の方へ流れていった。
談話室には、まだ上級生が何人か残っている。
だが、こちらへ露骨に耳を傾ける者はいない。そう見えるようにしているだけかもしれない。
フリントは腕を組んだ。
「お前、さっきのやつ」
「母の話ですか」
「そうだ」
怒鳴らない。
声は低い。
だが、圧はある。
「別にマグル生まれがどうとか言ってるんじゃねえ」
その言い方には、少しだけ無理があった。
完全にそう思っていない者の声ではない。
だが、それを主題にするつもりはない声だった。
「だが、言い方ってもんがある」
「事実を答えました」
「だからだよ」
フリントの眉が寄る。
「お前みたいなのは、無駄に突っかかられる。古い名前を持ってるくせに、母親の話をそのまま出す。しかも平気な顔でだ。そういうのは、相手に理由をやる」
理由。
「揉める理由ですか」
「そうだ。寮の中で揉め事を増やすな」
主義、思想ではない。
運営の話だ。
フリントは、エリアスの母をどう思うかではなく、寮内で起きる摩擦を見ている。
誰が突っかかり、誰が反応し、どこで上級生が止めに入ることになるか。
そういう面倒を計算している。
「隠せとは言わねえ」
フリントは少し声を落とした。
「だが、言い方は考えろ。スリザリンは、正しさをそのまま投げりゃ通る場所じゃねえ」
言葉が、思ったより重かった。
「覚えておきます」
「そうしろ」
フリントはそこで少しだけ視線を外した。
暖炉の火が、横顔に影を作る。
「……まあ」
続きが出るまで、一拍あった。
「隠さなかったのは、嫌いじゃねえけどな」
声は小さかった。
次の瞬間には、いつもの荒い顔に戻っている。
「行け。男子寮はこっちだ」
談話室を出る前に、一度だけ振り返る。
緑がかった光。深い青の水影。静かな暖炉。銀の装飾。こちらを見ているいくつかの目。
美しい場所だった。
閉じていて、冷たく、よく整っている。
だからこそ、簡単には受け入れない。
誰も怒鳴らない。
誰も追い出さない。
だが、受け入れられたわけでもない。
それでいい。
少なくとも、今は。
男子寮へ続く廊下は、さらに冷えていた。
前を歩くフリントの足音が、石壁に低く響いている。
案内された部屋には、四つのベッドがあった。
天蓋つきのベッド。
深い緑のカーテン。
足元に置かれたトランク。
壁には古いランプがあり、光は柔らかいが明るくはない。
すでに三人がいた。
ブレーズ・ザビニは、窓に近いベッドの端に腰掛けていた。
黒い水のような窓の向こうを見ている。こちらが入ってくると、顔だけを向けた。
「遅かったな」
「呼び止められた」
「だろうね」
その言い方は、理由を聞かなくても分かると言っているようだった。
部屋の中央近くに立っていた少年が、一歩前へ出た。
大広間では見かけたが、名前はまだ知らない。
襟元まで整ったローブ。無駄のない姿勢。少し硬いが、怯えてはいない目。
「カシアン・ロウルです。ロウル家の分家にあたります。よろしくお願いします」
丁寧な声だった。
同年代へ向けるには、少し整いすぎた声だった。
だが、慇懃ではない。礼儀がそのまま身についている声だった。
「エリアス・レンだ」
「知ってますよ。先ほど呼ばれていましたからね」
カシアンはそう言って、軽く微笑んだ。
もう一人は、ベッド脇でトランクの留め具を何度も確認していた。
薄い茶色の髪をきちんと撫でつけ、顔色はやや悪い。こちらを見るたびに、すぐ目を逸らす。
上級生がいない部屋の中でも、まだ誰かの顔色を見ているようだった。
「オズウィン・ケイ。三代前から、純血なんだ」
少し早口だった。
三代前から純血。
誰も聞いていない。
それでも、あえて添えた理由は分かった。
カシアンは何も言わない。
ザビニも笑わない。
ただ、部屋の空気がその情報を受け取り、静かに位置を決めた。
ケイの顎が、少しだけ引かれた。
「よろしく」
そう返すと、ケイは一瞬だけ驚いたような顔をした。
「……うん」
ザビニが軽く肩をすくめる。
「これで四人か」
カシアンが部屋を見回した。
「荷物は全員分ありますね。明日の朝、迷わないように教室までの道を確認しておいた方がいいでしょう」
「明日でいいだろ」
ザビニが言う。
「明日の朝に迷うから、今確認するんですよ」
「真面目だね」
「必要なことです」
そのやり取りを聞きながら、ベッドの柱に触れた。
冷たい木だった。
手入れはされている。
古いが、傷んではいない。
スリザリンの談話室。
地下の廊下。
この部屋。
四つのベッド。
所属した。
その事実だけが、静かにそこにある。
馴染んだわけではない。
だが、今夜からここで眠る。
窓の外では、幻想的な水の影がゆっくり揺れていた。