しかし、いたずらに襲来した魔王軍によって全てが瓦解した。ヨハンは惰性で生きる男である。当然、命の危機を前に逃げたい気持ちでいっぱいだったが、責任という言葉が彼を辛うじて押しとどめた。
ヨハンは情熱のない男である。そんな彼が熱というものを持った時、それは――死の淵であった。
今日は良く晴れている。兵舎の中にいても聞こえるほどに通りは活気づいている。春先の、乾いているとも湿っているともつかない空気を商人の声が叩き、雑踏が石畳を揺らす。寒く厳しい冬を越えたばかりの少し冷たい風が屋内へ流れ込み、僅かな花の薫りが花をくすぐった。
その日は仕事が速く終わった。隊長を務める自分でも日が暮れないうちに休憩を入れることができそうだった。正直家に帰ってゆっくりと眠りたいが、ここ最近は兵舎で寝食を済ませている。今更帰ったところで掃除をする羽目になるだけだろう。
それは余りにも面倒だ。だったら、掃除人のいる兵舎で生活をした方が面倒が少ない。だから、家の持ち腐れになってしまうのはもったいないが。
衛兵隊長であることを示すがごとくそれなりに調度品の置いている部屋から退出し、普通の服に着替え、軽く声をかけてから外に出ると、街並みが広がる。領主が変わってから大規模な改革があった街は、子供の頃に見た面影を少しばかり残して変わっている。胸に寂寥感を覚えながら、街並みを観察するように歩いていると、後ろからカラカラという音と幼い声が近づいてきた。
軽く後ろを見遣ると、白色の乳母車に乗せられた赤子と婦人が歩いている。区画が整理され、なだらかになった道はつっかえることなく車輪を滑らせる。改革がもたらした街並みと、向上した治安。それによって婦人一人で道を歩くことができるようになったのは領主さまさまだと、ふと思った。
朗らかな様子で赤子に語り掛ける婦人と、キャッキャと楽しそうに笑う赤子を見ていると、流されるままに生きている自分でもこういう日常を守ることができているのかと不可思議な納得があった。
これがいつまでも続けばいいと、思った。
ーーーーー
激痛に目が覚める。気がつけば、部下の死体に埋もれていた。
私は確か、都市に突如として襲来した魔王軍を退けるため、衛兵隊を率いて迎撃を行っていたはずだ。
襲来した魔物の群れは手ごわかったが、それでも力を合わせれば撃滅することは可能だった。私が旗頭となり、大きな魔物は封じ、小粒なものから倒していき、みごと都市の防衛に成功したはずだった。
記憶が途切れる前、勝利に珍しく顔を綻ばせていた副隊長が突然おどろいたような顔をしたのち、何かが飛んできたのだ。確かあの時、辛うじて剣を盾にしたはず。そのおかげで生き延びたのだろうが、鎧に刺さる金属片が剣の末路を雄弁に語っていた。
あれから、時間はそこまで立っていないのだろう。視界の遠くにある魔族の影は都市にたどり着いていない。
私はこれでも都市の衛兵の長を務めていた者、都市の人口は把握しているほど経験があるつもりだ。それが告げるには、まだ避難は完了していないということ。王都には救援を送ってあるが、それでも到着するには時間が足りない。
倒れたままの私に風が吹く。人と魔物の血と、踏み荒らされた草むらが混じったような匂い。このまま死んだふりを続けていればここから逃げ延び、生き残ることができるだろう。
命あっての物種。軍勢は止めた。我々は負けた。責任はもう十分に果たしたはずだ。私は生きたい。例え名を捨て難民として生きることになったとしても命は続けられる。また新たな人生を始めよう。それに、何とか、運よく生き残っていたという体にすれば周りの目もどうにかなるじゃないか。
だのに。
なぜ私は。
立とうとしているのだろう。
「待て」
「…ほう、立ち上がることを選んだか。魔物の群を打ち払い、我が攻撃を受けて生き残った褒美として見逃してやろうと思っていたのにな」
膝が笑っている。それは嘲笑であろうか。無謀にも立ちふさがり、責任を果たそうと命を捨てる愚か者に対して嗤っているのだろうか。
いや、違う。
私は――。
こんな自分でも守れた日常というものを、あの赤子を、笑顔を。
壊れてしまうことが。
それを見逃がしてまで生き残ろうとした自分がそれを背負って生きていくのが。
――酷く怖いのだ。
私は今までだらしなく生きてきた。
身に宿った才能を自慢に思えど努力することはせず、親からの期待を煩わしく思いながら都市の衛兵隊長という立場に甘んじて上に昇ろうとする意志を見せず。降りかかる書類の山にぶつくさと文句を言い副隊長にどやされながらも結局やる。会議では眠りそうになり、その度に腿を抓られ姿勢を正す日々。そんな日常が、私にとって何物にも代えがたかった。
副隊長よ、もう聞こえているはずもなかろうが、君の剣を借り受ける。
魔力を励起させる。少しの間寝ていたおかげだろうか、疲労感はマシになり、魔力の通りもいい。ただ、折れた肋骨は今も変わらず痛みを神経に送っているし、脳は警鐘を鳴らし続けている。
この一瞬だけは逃げたくない。
今この瞬間、初めて能動的意思というものが私の身体に満ちた。
「行くぞ、魔族」
「来い人間。遊んでやる」
放たれる魔弾をジグザグに跳んで避ける。巻き上がる土くれが背を叩く。
避けきれないものは剣で逸らすように、あるいは剣を使って身体を滑らせるように捌く。強大な魔力の込められた魔弾は速度もさることながら、まるで大岩のような質量を感じさせる重みがある。
剣が悲鳴を上げる。腕の骨が軋む。鎖骨に入っていた罅が広がる音がした。
魔弾の雨の中を躍る。酒場で冒険者の荒くれ共の視線を集めていた踊り子のようにではなく、それにつられた酔っ払いがするように無様に。
土が口に入るのも構わず転がる。足が棒のように感じる。もはや筋肉など機能せず、骨だけで動かしているのではないかという疲労感。
それでも、まだ動ける。
この身を支払い、街を滅ぼすはずだった魔弾を吐き出させる。戦いが始まる前は奇麗だった草原は今や見る影もなく、無数の穴と血にまみれている。ただ、死ぬことを避け死線を駆ける。
身体は泥だらけだった。傷だらけだった鎧は土がこびりつき、髪は汚れ、みすぼらしい兵士がどうにか潜り抜けようとする光景。
どれくらい経っただろうか。一時間か、もしかしたら十分も経過していないのかもしれない。避けきれなかった魔弾が肩をかすめ、錐もみしながら地面を転がり、避けたはいいが余波に晒され吹き飛ぶ。
それでも、何とかたどり着いた。
「どうした人間。やっとたどり着いたというのに傷だらけではないか。犬のように息を吐き出し、豚のように泥にまみれる。それでは獣だな」
「せいぜい、ご高説でも垂れていろ…魔族。時間は私の…味方だ」
視界が霞む。ついに血が足りなくなったのだろうか。だが、それがどうした。見えているのなら剣を突き立てられる。まだ両足は地面を掴んでいる。握力の感じられない右手で柄を握りしめる。左腕が動くことを確認する。
天から降りる光がそこにいることを告げてくれる。シルエットさえわかれば、十分だ。
にやつく魔族が小さくした魔弾の雨を放つ。破壊規模の小さくなったそれは地面を蹂躙し、僅かに残った草を抉り取る。
獣のように姿勢を低くし、全速力で駆け抜ける。すぐ後ろを通過する魔弾には目もくれず。
一瞬のうちに切り返し、魔弾の上を飛び越え、生じた隙をついて肉薄する。
都市で教えられる剣術に少しばかりアレンジを加えた剣筋が魔族の首元に迫る。
「無駄だ。数打ちでは
しかし、無情にも硬質な音を立てて弾かれた。
攻撃が通じなかったことを察知した私は直ぐに後ろに飛ぶも、魔族はそれと同時に掌をこちらに向けていた。
「案外楽しめたぞ」
そう告げる魔族の手から光が放たれ――。
『いいか、ヨハン』
そんなときに、浮かんだのは王都を守る騎士団長と何の因果か会話をした時のこと。
『曖昧な言い方になってしまうが、剣理とは芯だ』
出来心で、心象を良くするために剣術について聞いた。
彼は、笑顔でアドバイスをくれ、自分の剣理についても教えてくれた。
『芯を通せば、例え枯れ木のような老人でも、鈍らの剣であっても相手を斬り、貫くことができる』
『まぁ、あくまで師匠の受け売りだ。参考にするかしないかは任せる』
その時は“参考にします”と言ったが、都市に帰ってきても特段特訓に励むとかはしなかった。
しかし、もしあれを再現できたら。
目の前はもう白く染まっている。網膜を焼き付ける魔光は引き伸ばされた時間の中にいても内包された威力を感じ取らせる。
もうじき魔弾が私の身体を食い破り、跡形も残さないだろう。
思い出から目を離し前を見据える。
――
一歩、前へと足を進める。
轟音。
炸裂した魔弾は光を撒き散らし、あたりを白く塗りつぶす。
今なら、
「……ッ!?貴様――」
魔族の視界に映る私の姿はさぞかし惨いことだろう。
左腕を魔弾に叩きつけ、炸裂させた。
左半身を盾にして斜め前へと飛んだ私は、消し飛んだ左足の分まで魔力を右足に滾らせ地面に突き刺し、骨が砕けながらも無理やり方向を転換させ魔族の横っ面を奇襲した。
暇つぶしに相手をしていた
対処しようと腕を上げようとしているが、無駄だ。
今なら
無理を通しすぎた結果、私の身体はとうに限界を超えている。
半身を失ったことによって、なけなしの血も失った。
私に出来ることはこれで全てだ。
初めて本気を出し切ったのが最期とは、我ながらなんと怠惰な人生だろうか。だが、悔いはそこまでない。
魔族の吠え面が拝めないのは残念極まりないが、後のことはここに来る誰かに任せるとしよう。
そして、私は人生に幕を下ろした。