第一話 黒山の狼
夜の山は静かだった。
風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが闇の中を流れていく。
だが、その静けさの奥には確かに“死”が潜んでいた。
「た、隊長……本当に、この道で合ってるんですか?」
若い兵が怯えた声を漏らす。
月明かりすら届かぬ山道。周囲は切り立った崖と黒い森。まるで獣の腹の中を進んでいるような圧迫感があった。
先頭を進む隊長格の男は苛立ったように鼻を鳴らす。
「うるせぇな。斥候の報告じゃ、この先に黒山賊の拠点があるんだよ」
「で、ですが……妙に静かすぎます」
「山賊どもが官軍相手に正面から来れるかよ」
男は笑った。
しかし、その笑いには余裕がなかった。
黒山党。
太行山脈一帯を支配する巨大賊軍。
ただの盗賊集団ではない。流民、脱走兵、飢えた農民――ありとあらゆる“行き場を失った者”が集まり、一つの勢力と化した存在。
官軍は何度も討伐軍を送り込んだ。
だが、そのほとんどが山に呑まれて消えた。
「……っ」
兵の一人が足を止めた。
「どうした?」
「い、今……誰か」
瞬間。
ヒュン――ッ!!
夜気を裂く音。
「がぁっ!?」
最後尾の兵の喉に矢が突き刺さった。
鮮血が噴き出す。
「敵襲!!」
叫びが上がる。
だが、その声に応えるように四方八方から矢が降り注いだ。
「ぐぁっ!?」
「伏せろ!!」
「どこからだ!?」
混乱。
恐怖。
闇の中から姿は見えない。
ただ殺意だけが飛んでくる。
その時だった。
ゴロゴロゴロ――ッ!!
山の上から巨大な岩が転がり落ちてきた。
「なっ……!?」
「逃げ――」
潰れた。
兵士たちが悲鳴ごと押し潰され、骨と肉片になる。
隊列は完全に崩壊した。
「囲まれてる!!」
「退け! 退却だ!!」
だが遅い。
山道の後方では、既に木々が倒され退路を塞がれていた。
兵たちの顔が絶望に染まる。
その時。
闇の奥から、笑い声が聞こえた。
「クク……」
軽い。
妙に楽しそうな笑い声だった。
「随分とまあ、いい面になったじゃねぇか」
松明が灯る。
暗闇の中から現れたのは、一人の男だった。
黒い外套。
長い黒髪。
痩せた身体。
そして、獣のような赤い瞳。
男は岩の上に腰掛けながら、面白そうに官軍を眺めていた。
「ち、張燕……!!」
隊長格の男の顔が青ざめる。
黒山党頭領。
“黒山の狼”。
張燕。
真名を――時雨。
「よぉ官軍。山遊びは楽しかったか?」
時雨はニヤリと笑った。
その笑みに、兵士たちは本能的な恐怖を覚える。
この男は危険だ。
理屈ではない。
生物として理解してしまう。
「き、貴様ぁぁ!!」
隊長が剣を抜き突撃する。
恐怖を振り払うような叫びだった。
時雨は笑みを崩さない。
「勇敢だな」
次の瞬間。
ドスッ――。
隊長の胸から槍の穂先が突き出た。
「……え?」
血が零れる。
背後にいた黒山党の男が、冷静に槍を引き抜いた。
隊長は崩れ落ちる。
時雨は退屈そうに立ち上がった。
「殺れ」
その一言だった。
黒山党が一斉に襲いかかる。
悲鳴。
断末魔。
血飛沫。
夜の山は、一瞬で地獄へ変わった。
時雨はその光景を眺めながら、小さく欠伸をする。
「ま、こんなモンか」
彼にとって戦とは、生き死にを賭けたものではない。
ただの“狩り”だった。
狩る側か、狩られる側か。
それだけだ。
そして今夜もまた、狩られたのは官軍だった。
翌朝。
山を下った村では、奇妙な光景が広がっていた。
「ほらよ」
ドサッ、と米袋が置かれる。
村人たちが目を見開いた。
「こ、これは……」
「昨日ぶっ殺した官軍の兵糧だ。腐る前に食え」
黒山党の男たちは笑いながら食料を配っていた。
子供たちは歓声を上げる。
痩せ細った母親は涙を流していた。
「ありがとうございます……!」
「礼なんかいらねぇよ」
「頭領の命令だ。“腹減ってる奴からは奪うな”ってな」
村人たちの顔に安堵が広がる。
その様子を、離れた丘から一人の女が見つめていた。
水色の長い髪。
凛とした美貌。
背には長槍。
旅装束の女武者。
趙雲だった。
「……これが黒山賊、か」
彼女の眉がわずかに寄る。
話に聞く黒山党は、残虐非道の賊軍だった。
村を焼き、女を攫い、略奪を繰り返す悪党。
そう聞いていた。
だが実際に見た光景は違う。
民は黒山党を恐れていない。
むしろ感謝している。
「妙だな……」
趙雲は小さく呟いた。
そこへ。
「おい姉ちゃん」
いつの間にか背後に男が立っていた。
黒山党の見張りだ。
「こんな所で何してる?」
「旅の者だ。少し村を見ていただけさ」
「へぇ?」
男はじろじろと趙雲を見る。
ただ者ではない。
そう察したのだろう。
「頭領に会ってくか?」
「……頭領?」
「張燕様だよ」
趙雲は少し考えた。
本来なら賊と関わるべきではない。
だが――。
(このまま見過ごすのも違うか)
「案内を頼めるか?」
「おう」
男は気軽に歩き出す。
趙雲はその後を追った。
黒山党の本拠地は、山奥とは思えぬほど大きかった。
砦。
畑。
鍛冶場。
無数の人間。
まるで一つの街だ。
子供たちが走り回り、女たちが洗濯をしている。
賊の根城というより、避難民の集落に近い。
「驚いたか?」
案内役が笑う。
「ここには行き場のねぇ連中が集まってんだ。役人に見捨てられた奴、土地を奪われた奴、飢えた奴……色々な」
「……」
「ま、頭領はクソみてぇに性格悪いけどな」
その言葉に、周囲の黒山党たちが笑った。
恐怖による支配ではない。
妙な一体感がある。
趙雲は違和感を覚えながら奥へ進む。
そして。
「頭領ー。客っす」
洞窟のような広間。
そこに、一人の男が寝転がっていた。
黒髪。
赤い目。
薄い笑み。
酒瓶を片手に、まるで昼寝でもしているような姿。
だが、その空気は異様だった。
獣だ。
人間の形をした何か。
趙雲は直感する。
この男は危険だと。
「……あ?」
時雨がゆっくり視線を向ける。
「女?」
「旅人らしいっす」
「へぇ」
時雨は体を起こした。
赤い目が趙雲を舐めるように見る。
「アンタ、武人だろ」
「……何故そう思う?」
「立ち方」
即答だった。
「あと目つき。人殺したことある奴の目だ」
趙雲の空気がわずかに張る。
だが時雨は笑った。
「安心しろよ。別に斬り合おうって話じゃねぇ」
「私は貴様を信用したわけではない」
「そりゃそうだ」
時雨はケラケラ笑う。
「俺もアンタみてぇな堅物は嫌いだ」
「……」
「で? 何しに来た」
「黒山賊を見に来た」
「あー」
時雨は納得したように頷いた。
「官軍の犬か?」
「違う」
「じゃあ正義の味方か?」
その言葉に、わずかに嘲笑が混じる。
趙雲は眉を寄せた。
「民を守る者ではある」
「ククッ……」
時雨は肩を震わせる。
「面白ぇこと言うなぁ」
「何がおかしい」
「民を守る?」
時雨の笑みが深くなる。
「この国のどこに、民を守ってる奴がいる?」
空気が変わった。
先ほどまでの軽薄さが消える。
赤い目だけが冷たく光る。
「役人は税を奪う。官軍は食い物を奪う。貴族は見殺しだ。で、腹減った民が山に逃げりゃ“賊”扱い」
時雨は立ち上がる。
「笑えるよなぁ?」
趙雲は言葉を返せなかった。
「俺らは生きるために奪ってるだけだ」
「だからといって、罪が消えるわけではない」
「罪?」
時雨は鼻で笑った。
「綺麗な言葉だな」
そして彼は趙雲の目の前まで歩み寄る。
近い。
獣の匂いがした。
「アンタ、名前は?」
趙雲は一瞬黙る。
そして静かに答えた。
「……名乗るほどの者ではない」
真名は教えない。
軽々しく許すものではないからだ。
時雨は少しだけ目を細めた。
「そうかい」
怒りもしない。
ただ、面白そうに笑った。
「ま、いいさ。どうせまた会う」
「……何?」
「アンタみてぇな目をした奴は、この乱世じゃ放っとけねぇ」
時雨は酒瓶を傾ける。
「それに」
彼は笑った。
酷く楽しそうに。
「アンタ、まだ俺を殺すか迷ってる顔してる」
趙雲の指が槍を握る。
見透かされた。
この男は危険だ。
本来なら、ここで討つべきなのかもしれない。
だが。
村人たちの笑顔が脳裏を過る。
飢えた子供。
感謝する母親。
腐敗した官軍。
そして、この男。
趙雲は槍から手を離した。
「……今日は見逃してやる」
「ハッ」
時雨は愉快そうに笑う。
「優しいな、姉ちゃん」
趙雲は踵を返す。
だが去り際、背後から声が飛んだ。
「また来いよ」
軽い口調だった。
「次は酒でも飲もうぜ」
趙雲は振り返らない。
だが彼女は知らなかった。
この出会いが。
後に乱世を揺るがす運命になることを。
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