第百一話 崩れ始めた徐州
徐州城。
かつて曹操が苦労して手に入れた豊かな土地の中心。
しかし今、その城の中には徐々に焦燥が広がり始めていた。
城壁は健在だった。
兵もいる。
春蘭も秋蘭も健在。
桂花もいる。
本来なら簡単には落ちない。
それでも不安が消えない。
理由は単純だった。
敵が見えない。
いや。
正確には見えている。
黒山軍は存在する。
江東軍も存在する。
だが肝心の張燕が何を考えているのか分からない。
それが何より恐ろしかった。
「北の倉庫が空になりました」
「東の商人組合が移転しました」
「南部の豪族が江東軍へ寝返りました」
報告が続く。
春蘭の額には青筋が浮いていた。
「だから何故だ!」
叫ぶ。
だが答えられる者はいない。
兵を倒されたわけではない。
戦に負けたわけでもない。
それなのに支配が崩れていく。
普通の将軍には理解し難い戦だった。
「姉者」
秋蘭が静かに言う。
「怒鳴っても状況は変わらない」
「分かっている!」
春蘭は椅子へ座った。
そして頭を抱える。
武力なら自信がある。
敵将を討つこともできる。
戦場で暴れることもできる。
だがこういう戦は苦手だった。
「桂花」
秋蘭が視線を向ける。
「どう思う」
桂花は黙ったまま地図を見ていた。
徐州全域の地図。
そこには無数の印が付けられている。
黒山軍。
江東軍。
寝返った豪族。
移転した商人。
消えた補給路。
それらを見ているうちに、あることへ気付いた。
「なるほど」
小さく呟く。
「やっぱりそういうことね」
春蘭と秋蘭が振り返る。
「何か分かったのか?」
「ええ」
桂花は地図を指差した。
「張燕は最初から徐州そのものを狙ってない」
「は?」
春蘭が目を丸くする。
「どういう意味だ」
桂花は続けた。
「徐州を孫策へ渡すための戦よ」
部屋が静かになる。
その発想はなかった。
「江東と河北の同盟」
「徐州侵攻」
「黒山軍の動き」
全てが繋がる。
「つまり」
秋蘭が言う。
「張燕は自分の領土にするつもりはない?」
「その可能性が高い」
桂花は頷く。
「だから焦っていない」
城を攻めない理由も説明できる。
時間がかかっても問題ない。
徐州が曹操の手から離れればそれでいい。
その先は江東へ渡す。
そして強固な同盟を築く。
「厄介ね」
桂花は本心からそう思った。
普通の諸侯なら土地が欲しい。
名声が欲しい。
権力が欲しい。
だが張燕は違う。
必要なら土地すら他人へ渡す。
だから読みにくい。
一方その頃。
黒山軍本陣。
時雨は恋と共に丘の上にいた。
眼下には徐州北部の街が見える。
市場は賑わい、人々が行き交う。
既に黒山軍の支配下にある場所だった。
「平和」
恋がぽつりと言った。
「ああ」
時雨も頷く。
「戦争中なのに」
「そうだな」
普通ならあり得ない光景だった。
だが時雨の狙いはそこにある。
民に戦を感じさせない。
平和な方へ人は流れる。
金も流れる。
物も流れる。
だから無理に奪う必要はない。
「頭領」
黒山兵が駆け寄ってくる。
「報告です」
「聞こう」
「徐州城の備蓄が減っています」
「そうか」
予想通りだった。
補給路を切られている。
商人も減っている。
徐州城は徐々に痩せ細っていた。
城とは巨大な生き物だ。
毎日大量の食糧を食う。
金も使う。
人も必要だ。
それらが不足すれば弱る。
「もう少しだな」
時雨は空を見上げた。
青空だった。
戦の匂いはしない。
しかし確実に徐州は崩れている。
その頃。
徐州南部では江東軍が進軍を続けていた。
総大将の孫権は馬上で周囲を見渡している。
少し前なら考えられなかった。
自分が大軍を率いるなど。
だが今は違う。
周瑜が支えてくれる。
孫策も信じてくれている。
ならば応えたい。
「順調ね」
孫権が言う。
隣の周瑜が頷いた。
「張燕のおかげだ」
事実だった。
黒山軍が北から揺さぶる。
江東軍が南から圧力をかける。
徐州軍は身動きが取れない。
「本当に不思議な人だ」
孫権が呟く。
「敵なら恐ろしい」
周瑜も同意した。
「だから味方で良かった」
二人は苦笑した。
そしてその夜。
黒山軍本陣に一人の男が訪れる。
黒い外套。
旅人のような姿。
しかし黒山兵たちは警戒しない。
仲間だった。
「戻りました」
「どうだった」
時雨が聞く。
男は笑った。
「上手くいっています」
「そうか」
「徐州城内にも入りました」
恋が首を傾げる。
「誰?」
「間者だ」
時雨が答える。
黒山軍の真骨頂。
情報網。
昔から山賊だった彼らは潜り込むのが得意だった。
今では徐州全域に協力者がいる。
豪族。
商人。
農民。
職人。
そして城の中にも。
「もう準備は終わった」
時雨は笑う。
恋が聞く。
「何の?」
「最後の仕上げだ」
徐州は既に揺らいでいる。
だがまだ倒れていない。
だから押す。
最後にもう一度。
強く。
「そろそろ夏侯惇たちも動くだろう」
守るだけでは終わらない。
武人なら必ず出てくる。
春蘭は特にそうだ。
籠城し続ける性格ではない。
「出てきたら?」
恋が聞く。
時雨は笑った。
「歓迎する」
黒山軍は待っていた。
城から出てくる瞬間を。
春蘭。
秋蘭。
桂花。
徐州軍最後の主力が動く時を。
そして徐州の戦いは、ついに次の局面へ進もうとしていた。
静かに続いていた削り合いは終わる。
黒山軍の策。
江東軍の圧力。
曹操軍の反撃。
三つの思惑が交錯し、徐州の大地に大きな戦の足音が響き始めていた。
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