【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第百二話 夏侯惇、出陣

第百二話 夏侯惇、出陣

 

 

 徐州城の朝は重かった。

 

 城壁の上を吹き抜ける風は冷たく、兵士たちの顔にも疲労の色が浮かんでいる。

 

 戦は続いている。

 

 だが誰も戦っている実感を持てない。

 

 敵は攻めてこない。

 

 城も落ちていない。

 

 それなのに徐州は少しずつ削られていく。

 

 まるで見えない病に侵されているようだった。

 

 春蘭はそんな空気が我慢できなかった。

 

「もう限界だ!」

 

 軍議室の机を叩く。

 

 机が悲鳴を上げた。

 

 秋蘭は額を押さえる。

 

「また机か」

 

「そんなことはどうでもいい!」

 

 春蘭は立ち上がった。

 

 眼帯の奥の瞳が怒りに燃えている。

 

「いつまで守る!」

 

「姉者」

 

「いつまで張燕の好きにさせる!」

 

 その声は軍議室に響いた。

 

 誰も反論できない。

 

 春蘭の言葉にも一理あった。

 

 徐州は確実に弱っている。

 

 しかし待っているだけでは何も変わらない。

 

「私は出るぞ」

 

 春蘭が宣言した。

 

 秋蘭と桂花が同時に顔を上げる。

 

「本気か」

 

「当然だ」

 

 春蘭は即答した。

 

「敵が来ないならこちらから行く」

 

 武人らしい考え方だった。

 

 単純。

 

 真っ直ぐ。

 

 そして危険。

 

「張燕が待っているかもしれない」

 

 秋蘭が言う。

 

「なら尚更だ」

 

 春蘭は笑った。

 

「叩き潰してやる」

 

 桂花はため息を吐いた。

 

「馬鹿ね」

 

「何だと!」

 

「だから馬鹿だと言ってるのよ」

 

 桂花は腕を組む。

 

「相手は張燕よ」

 

「知っている!」

 

「分かってない」

 

 桂花は即答した。

 

「張燕は姉者みたいな人間が大好きなのだ」

 

 春蘭が顔をしかめる。

 

「気持ち悪いことを言うな」

 

「違うわよ脳筋」

 

 桂花は指を鳴らした。

 

「単純な相手ほど利用しやすいの」

 

 春蘭の顔が引きつる。

 

 だが否定できない。

 

 実際、ここまで徐州は振り回されている。

 

「それでもだ」

 

 春蘭は言った。

 

「動かなければ終わる」

 

 その言葉に秋蘭も黙る。

 

 それもまた事実だった。

 

 徐州は守勢一方。

 

 このままでは削り殺される。

 

 だから。

 

「私も出よう」

 

 秋蘭が言った。

 

 春蘭が振り向く。

 

「秋蘭」

 

「姉者一人では不安だ」

 

「余計なお世話だ!」

 

「いや必要だ」

 

 秋蘭は真面目だった。

 

 そして桂花を見る。

 

「どうする」

 

 桂花は黙った。

 

 しばらく考える。

 

 そして深いため息を吐いた。

 

「反対したい」

 

「だろうな」

 

「でも状況が悪いのも事実」

 

 認めるしかない。

 

 徐州軍は動かなければならない。

 

「ただし条件がある」

 

 桂花が言う。

 

「何だ」

 

「決戦しない」

 

 春蘭が嫌そうな顔をする。

 

「張燕が見えても追うな」

 

「……」

 

「姉者」

 

 秋蘭も睨む。

 

 春蘭はしばらく唸った後で頷いた。

 

「分かった」

 

 あまり信用されていなかった。

 

 一方その頃。

 

 黒山軍本陣。

 

 時雨は朝から笑っていた。

 

 恋が不思議そうに見ている。

 

「どうした?」

 

「来るぞ」

 

 時雨が言う。

 

「なにが?」

 

「夏侯惇だ」

 

 恋は首を傾げる。

 

 しかし時雨は確信していた。

 

 あの女は耐えられない。

 

 守るだけの戦いに。

 

 待つだけの戦いに。

 

 だから必ず出てくる。

 

「頭領」

 

 間者が駆け込んでくる。

 

「報告です」

 

「聞こう」

 

「徐州城より軍勢が出陣しました」

 

 周囲の黒山兵たちが笑う。

 

 予想通りだった。

 

「数は?」

 

「約一万五千」

 

「指揮官は?」

 

「夏侯惇、夏侯淵」

 

 時雨は頷いた。

 

 桂花もいるだろう。

 

 当然だ。

 

 ここまで追い込まれれば出てくるしかない。

 

「どうする?」

 

 黒山兵が聞く。

 

 時雨は地図を見る。

 

 そして笑った。

 

「何もしない」

 

 一同が笑う。

 

 黒山軍らしい答えだった。

 

「逃げるんですか?」

 

「違う」

 

 時雨は首を振る。

 

「遊ぶ」

 

 嫌な予感しかしない。

 

 恋だけが少し楽しそうだった。

 

 数日後。

 

 徐州北部。

 

 春蘭率いる軍勢は前進していた。

 

 久しぶりの出陣である。

 

 兵士たちの士気も高い。

 

 城に籠るより遥かに良かった。

 

「敵はどこだ!」

 

 春蘭が叫ぶ。

 

「見当たりません!」

 

 伝令が答える。

 

「探せ!」

 

「はっ!」

 

 しかし見つからない。

 

 黒山軍は現れない。

 

 逃げたわけでもない。

 

 いるはずなのだ。

 

 それなのに見えない。

 

「姉者」

 

 秋蘭が馬を寄せる。

 

「嫌な予感がする」

 

「何故だ」

 

「静かすぎる」

 

 その通りだった。

 

 街も村も普通に機能している。

 

 黒山軍の姿はない。

 

 まるで消えてしまったかのようだ。

 

 そしてその日の夜。

 

 春蘭の陣営に騒ぎが起きる。

 

「敵襲!」

 

 兵士の叫び声。

 

 春蘭が飛び起きる。

 

「どこだ!」

 

「西です!」

 

 急いで向かう。

 

 しかし誰もいない。

 

 敵影なし。

 

「何だったんだ?」

 

 困惑する。

 

 その直後。

 

「東で火事です!」

 

「何!?」

 

 今度は東。

 

 兵士たちが走る。

 

 だが着いた時には火は消えていた。

 

 小さな火種だけ。

 

 敵もいない。

 

 そして深夜。

 

「南です!」

 

「北です!」

 

「敵襲!」

 

「敵襲!」

 

 春蘭の顔が引きつる。

 

 兵士たちも疲れていく。

 

 一晩中走り回らされていた。

 

 秋蘭は理解した。

 

「なるほど」

 

「何だ」

 

「張燕だ」

 

 間違いない。

 

 これは戦ではない。

 

 嫌がらせだ。

 

 黒山軍は攻撃していない。

 

 ただ眠らせない。

 

 休ませない。

 

 疲れさせる。

 

 それだけ。

 

「ふざけるな!」

 

 春蘭が叫ぶ。

 

 そして遠く離れた丘の上。

 

 時雨はその様子を眺めていた。

 

 恋が団子を食べながら聞く。

 

「楽しい?」

 

「ああ」

 

 時雨は笑った。

 

「夏侯惇らしい」

 

 完全に振り回されている。

 

 だがまだ始まったばかりだ。

 

「明日はもっと忙しくなる」

 

「もっと?」

 

「もっとだ」

 

 黒山軍の兵たちも笑っていた。

 

 正面決戦。

 

 英雄同士の一騎討ち。

 

 そんなものはない。

 

 あるのは黒山流。

 

 相手が嫌がることを徹底的に続けるだけ。

 

 そして徐州軍は知らない。

 

 この夜襲騒ぎですら序章に過ぎないことを。

 

 張燕が本当に狙っているもの。

 

 それは春蘭たちの軍そのものではなく――。

 

 徐州軍の士気と信頼だった。




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