第百四話 黒山軍総攻撃
呂布が戦場を駆け抜けた日。
徐州軍の兵士たちは、生涯忘れることのない恐怖を味わった。
天下無敵。
飛将軍。
数々の異名で語られる呂布の武。
それは誇張でも伝説でもなかった。
実際に目の前で見れば分かる。
あれは人ではない。
戦場そのものだった。
春蘭が奮戦しようとも。
秋蘭が冷静に指揮を執ろうとも。
兵士たちの心に植え付けられた恐怖は簡単には消えなかった。
そして張燕は、その瞬間を待っていた。
黒山軍本陣。
丘の上から戦場を見下ろしていた張燕は静かに立ち上がる。
その顔にはいつもの笑みが浮かんでいた。
「頃合いだな」
周囲の将たちが顔を上げる。
黒山軍の精鋭たち。
長年共に戦場を駆けてきた歴戦の者たちだ。
彼らは皆、頭領の言葉を待っていた。
張燕は戦場を見つめる。
徐州軍はまだ崩壊していない。
だが確実に疲弊している。
士気も落ちている。
恐怖も広がっている。
だからこそ今だった。
「全軍」
張燕が口を開く。
その声は静かだった。
だが全員に聞こえた。
「出るぞ」
その一言で空気が変わる。
黒山兵たちの目が輝く。
彼らは待っていたのだ。
長い準備期間を。
嫌がらせ。
補給線遮断。
買収。
潜入。
情報戦。
全ては今日のためだった。
「総攻撃だ」
その瞬間。
黒山軍から歓声が上がった。
山が震えるほどの咆哮だった。
張燕は馬へ飛び乗る。
黒い軍旗が翻る。
そして。
「進め!」
総攻撃が始まった。
徐州軍本陣。
秋蘭は最初に異変へ気付いた。
「報告!」
伝令が飛び込んでくる。
「敵襲!」
「どこだ!」
「全方向です!」
秋蘭の顔色が変わる。
「何だと?」
「北から黒山軍!」
「東から黒山軍!」
「西からも敵影!」
次々と報告が飛び込んでくる。
それは最悪の知らせだった。
これまで姿を見せなかった黒山軍が、一斉に動き始めたのである。
春蘭が剣を抜く。
「ようやく来たか!」
嬉しそうですらあった。
だが秋蘭は違う。
冷や汗が流れている。
嫌な予感がする。
今まで戦わなかった張燕が、今になって総攻撃を仕掛ける。
そこには必ず理由がある。
そしてその予感は当たっていた。
戦場各地。
黒山軍は一斉に突撃していた。
だが普通の軍ではない。
彼らは山賊出身だ。
正面からの戦いだけではない。
側面へ回る。
補給隊を襲う。
逃げ道を塞ぐ。
敵を分断する。
徐州軍は次々と孤立していった。
「隊列を維持しろ!」
秋蘭が叫ぶ。
だが遅い。
既に混乱が広がっていた。
さらに悪い知らせが届く。
「報告!」
「何だ!」
「徐州城が包囲されました!」
その場が静まり返る。
秋蘭の表情が凍る。
「誰にだ」
「江東軍です!」
最悪だった。
張燕だけではない。
孫権軍も動いた。
徐州城が包囲されたということは。
退路がなくなる。
兵糧も危うくなる。
徐州全体が完全に切り離される。
「なるほど」
秋蘭が呟く。
「これが狙いか」
今までの全て。
徐州を削り続けた理由。
正面決戦を避けた理由。
全てはこの日のため。
徐州軍主力を城から引きずり出し。
その間に城を包囲する。
そして野戦で黒山軍が襲いかかる。
完璧だった。
春蘭が笑う。
「面白い!」
この状況でも笑う。
やはり武人だった。
「なら突破するまでだ!」
大剣を掲げる。
「曹操軍の武を見せてやる!」
兵士たちも叫ぶ。
しかし。
その時だった。
前方から轟音が響く。
土煙が上がる。
兵士たちが悲鳴を上げる。
「来るぞ!」
「何がだ!」
そして。
土煙の中から現れた。
巨大な方天画戟。
赤髪の少女。
無表情。
だが誰もが知っている。
呂布。
恋。
飛将軍が再び現れた。
「呂布か!」
春蘭が笑う。
だが周囲の兵士たちは震えていた。
先ほどの恐怖が蘇る。
恋はゆっくり方天画戟を構える。
「ん」
それだけだった。
次の瞬間。
再び突撃が始まる。
徐州軍の前衛が吹き飛ぶ。
隊列が崩れる。
兵士たちが逃げ始める。
春蘭が必死に食い止める。
「逃げるな!」
しかし恐怖は止まらない。
そこへ。
さらに黒山軍本隊が押し寄せる。
まるで濁流だった。
押し寄せる。
飲み込む。
潰す。
張燕は最後尾から戦場を見ていた。
冷静だった。
焦りもない。
全て予定通りだった。
「徐州は終わりだな」
呟く。
すぐ隣で古参の将が笑う。
「頭領」
「何だ」
「本当に徐州を江東へ渡すんですか」
張燕は笑う。
「ああ」
「惜しくありませんか」
「別に」
本心だった。
土地そのものには執着がない。
欲しいのは未来だ。
孫策との同盟。
江東との結び付き。
曹操を挟み撃ちにできる状況。
その方が価値がある。
「それに」
張燕は遠くを見る。
「白蓮の河北だけで十分広い」
既に幽州。
并州。
冀州。
青州。
広大な領土を持っている。
徐州まで抱えれば管理できない。
だから渡す。
それだけだった。
戦場では黒山軍の攻勢が続く。
徐州軍は徐々に押されていた。
春蘭は戦う。
秋蘭も戦う。
だが数が違う。
勢いが違う。
そして何より。
士気が違った。
今の黒山軍は勝利を確信している。
徐州軍は包囲されたことを知っている。
その差は大きかった。
夕暮れ。
戦場は黒山軍優勢のまま終わる。
そして徐州城。
その城壁の向こうでは。
孫権率いる江東軍の旗が無数に並んでいた。
徐州は完全に包囲されたのである。
北から黒山軍。
南から江東軍。
城内には曹操軍。
逃げ場はない。
徐州攻略戦はついに最終局面へ突入しようとしていた。
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