第百六話 報酬
徐州の戦いは終わった。
曹操軍は敗れ、夏侯惇と夏侯淵は残存兵を率いて撤退した。
長く続いた攻防戦に終止符が打たれたのである。
そして勝者となったのは江東軍だった。
徐州城の城壁には、既に江東の旗が掲げられている。
城下町では兵たちが復興作業を始め、住民たちも徐々に日常を取り戻しつつあった。
戦の終わり。
そして新たな支配者の始まりである。
城主府の一室。
孫権は机の上に積まれた書簡の山を見ていた。
「うわぁ……」
思わず声が漏れる。
徐州を手に入れたのはいい。
だが領地を治めるというのは別問題だった。
税。
治安。
兵站。
豪族。
商人。
確認しなければならないことが山ほどある。
「姉様ってこんなの毎日やってたの……」
少しだけ尊敬した。
その時だった。
扉が開く。
「よ」
気軽な声。
孫権は顔を上げた。
「張燕」
そこには張燕がいた。
相変わらず気楽そうな顔をしている。
まるで散歩の途中で立ち寄ったかのようだった。
「暇そうだな」
「どこが!?」
孫権が即座に机を指差す。
「見てよこれ!」
「凄いな」
「他人事だと思って!」
張燕は笑った。
実際、他人事だった。
徐州は最初から江東へ渡すつもりだったのである。
だから今後の苦労は全部孫策軍の仕事だった。
「でも約束は守った」
張燕が言う。
「徐州だ」
孫権も真面目な顔になる。
「ああ」
静かに頷く。
「約束通りね」
戦う前から決まっていた。
徐州は江東へ。
その代わり強固な同盟を結ぶ。
互いに背中を預けられる関係。
それが今回の戦の本質だった。
「正直」
孫権が言う。
「本当にくれるとは思わなかった」
「何でだ?」
「普通なら自分で取るでしょ」
それが乱世だ。
土地は力。
領地は財産。
誰だって欲しがる。
だが張燕は違った。
「俺は面倒なの嫌いだからな」
平然と言う。
「白蓮もいるし麗羽もいるし、河北だけで十分広い」
実際その通りだった。
幽州。
并州。
冀州。
青州。
既に巨大勢力である。
これ以上抱えれば統治が難しくなる。
「それに」
張燕は笑う。
「孫策との約束だからな」
孫権は少し驚いた。
この男は意外と義理堅い。
外道。
山賊。
非道。
そういう噂は聞く。
だが仲間や同盟には誠実だった。
「ありがと」
孫権が言う。
「ん?」
「今回のこと」
張燕は少しだけ笑った。
「気にするな」
「気にするわ」
孫権は真っ直ぐ見つめる。
「江東だけじゃ徐州は取れなかった」
それは事実だった。
張燕がいたから。
黒山軍がいたから。
曹操軍を引き裂けた。
春蘭たちを城外へ誘い出せた。
徐州城を孤立させられた。
「だから感謝してる」
孫権が頭を下げる。
張燕は苦笑した。
「真面目だな」
「悪い?」
「別に」
むしろ嫌いではなかった。
その時。
扉が再び開いた。
江東兵が入ってくる。
「張燕様」
「何だ?」
「捕虜の引き渡し準備が完了しました」
その言葉に張燕が立ち上がる。
「ああ」
孫権も思い出した。
今回の戦。
もう一つの成果。
曹操軍の軍師。
荀彧。
桂花。
彼女が捕らえられている。
「本当に連れていくの?」
孫権が聞く。
「もちろん」
張燕は即答した。
「戦の報酬だからな」
「絶対それだけじゃないでしょ」
「さて」
否定しなかった。
孫権が呆れる。
しばらくして。
地下牢。
桂花は不機嫌そうに壁へ寄りかかっていた。
捕虜生活数日。
当然機嫌など良いはずがない。
「最悪だわ」
誰もいない牢で呟く。
華琳に申し訳ない。
春蘭にも秋蘭にも申し訳ない。
軍師として捕まったことが悔しかった。
その時。
足音が聞こえる。
「誰よ」
顔を上げる。
そして。
「げっ」
露骨に嫌そうな顔をした。
張燕だった。
「よう」
「帰りなさい」
「酷いな」
「帰れ」
即答だった。
張燕は笑う。
「元気そうだな」
「誰のせいだと思ってるのよ!」
もっともだった。
徐州が落ちた原因の一端は確実に張燕にある。
「まあそう怒るな」
「怒るわよ!」
桂花が叫ぶ。
「で?」
腕を組む。
「何しに来たの」
張燕は答えた。
「迎えに来た」
一瞬。
沈黙。
「……は?」
「だから迎えだ」
「何それ」
「報酬」
桂花の額に青筋が浮かぶ。
「嫌なんだけど」
「そうか」
「そうよ」
「でも連れていく」
「聞きなさいよ!」
当然だった。
だが張燕は聞く気がない。
そして。
牢の扉が開く。
「ちょっと待ちなさい!」
桂花が後退する。
「本当に待ちなさい!」
「嫌だ」
「この山賊!」
「山賊だからな」
否定しない。
次の瞬間だった。
「きゃっ!?」
桂花の悲鳴が響く。
張燕がひょいと持ち上げたのである。
まるで荷物だった。
「降ろしなさい!」
「嫌だ」
「華琳様ぁぁぁぁ!」
地下牢に絶叫が響く。
しかし誰も助けてくれない。
そしてそのまま。
張燕は桂花を肩へ担いだ。
「離しなさい!」
「暴れるな」
「誰のせいよ!」
凄まじい勢いだった。
城主府前。
孫権はその光景を見ていた。
「……」
「……」
江東兵たちも見ていた。
「……」
「……」
誰も何も言わない。
言えない。
張燕は堂々と歩いてくる。
肩には桂花。
暴れている。
「張燕」
孫権が言う。
「何だ」
「本当に連れていくんだ」
「約束だからな」
桂花が叫ぶ。
「私は約束してない!」
全員が少し笑った。
張燕は馬に乗る。
そして振り返った。
「徐州は任せた」
「ああ」
孫権が頷く。
「そっちは河北を頼む」
「任された」
二人は笑う。
これで終わりではない。
むしろ始まりだ。
河北と江東。
巨大な同盟が成立した。
曹操という強敵を挟み撃ちにできる関係。
乱世を揺るがす勢力である。
張燕は馬首を返した。
黒山軍も動き始める。
帰るのだ。
河北へ。
そして桂花の悲鳴が最後まで響いていた。
「降ろしなさいぃぃぃ!」
「嫌だ」
「華琳様ぁぁぁぁ!」
その声を背に、張燕は上機嫌で徐州城を後にする。
強固な同盟を手に入れ。
そして新たな報酬を連れて。
次なる乱世の舞台へ向かうのだった。
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