【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第百八話 呪いと忠誠

第百八話 呪いと忠誠

 

 

 徐州攻略戦が終わってからしばらくの時が流れた。

 

 河北は平和だった。

 

 少なくとも表面上は。

 

 幽州、并州、冀州、青州。

 

 広大な土地は安定し、公孫瓚を中心とした統治も軌道に乗り始めている。

 

 その一方で。

 

 鄴の城ではある男が毎日のように頭を悩ませていた。

 

「荀彧」

 

「嫌よ」

 

「まだ何も言ってないぞ」

 

「どうせ勧誘でしょ」

 

 即答だった。

 

 庭園の東屋。

 

 張燕は机に突っ伏した。

 

 目の前では桂花が優雅に茶を飲んでいる。

 

 すっかり河北に馴染んでいた。

 

 牢屋生活など遠い昔である。

 

 今では政務にも参加し、麗羽や白蓮とも普通に会話している。

 

 それでも。

 

 ただ一つ。

 

 絶対に譲らないものがあった。

 

「華琳様への忠誠は変わらないわ」

 

 桂花は断言する。

 

「そうか」

 

「そうよ」

 

「残念だな」

 

「諦めなさい」

 

 張燕はため息を吐いた。

 

 実際、桂花は優秀だった。

 

 優秀すぎた。

 

 軍略。

 

 政略。

 

 内政。

 

 財政。

 

 どれを取っても一流。

 

 河北に欲しい人材そのものだった。

 

 だからこそ張燕も諦めない。

 

 毎日のように話しかける。

 

 茶を飲む。

 

 雑談する。

 

 誘う。

 

 断られる。

 

 その繰り返しだった。

 

「暇なの?」

 

「暇じゃない」

 

「暇でしょ」

 

「違う」

 

「絶対暇」

 

 桂花が呆れたように言う。

 

 張燕は苦笑した。

 

 そんなある日のことだった。

 

 城下で祭りが開かれることになった。

 

 戦勝祝い。

 

 収穫祝い。

 

 そして河北統一記念。

 

 理由はいくらでもある。

 

 とにかく宴会好きな黒山軍は盛大に騒ぐことにした。

 

 城下は大賑わいだった。

 

 芸人。

 

 大道芸人。

 

 楽師。

 

 踊り子。

 

 各地から様々な者が集まる。

 

 その中に。

 

 妙な一団がいた。

 

「呪い師?」

 

 張燕が首を傾げる。

 

 黒い衣を着た老人たちだった。

 

「そうです」

 

 部下が説明する。

 

「各地を旅している者たちです」

 

「へえ」

 

 面白そうだった。

 

 張燕はそういう余興が嫌いではない。

 

 むしろ大好きだった。

 

 そして。

 

「連れてこい」

 

 当然のように呼んだ。

 

 その日の夜。

 

 宴会場。

 

 黒山軍の将たちも集まっていた。

 

 白蓮。

 

 麗羽。

 

 恋。

 

 星。

 

 そして桂花。

 

 皆が酒や料理を楽しんでいる。

 

 そこへ呪い師たちが現れた。

 

「ほう」

 

 張燕が興味深そうに見る。

 

 老人たちは深々と頭を下げた。

 

「何ができるんだ?」

 

「様々な呪術でございます」

 

「例えば?」

 

「幸運」

 

「豊作」

 

「厄払い」

 

「縁結び」

 

 色々出てくる。

 

 だが。

 

 半分以上は怪しかった。

 

 黒山兵たちも笑っている。

 

「本当かよ」

 

「怪しいな」

 

「詐欺じゃないのか」

 

 そんな声も聞こえる。

 

 すると老人が言った。

 

「試してみますか」

 

 その言葉に張燕が笑う。

 

「面白い」

 

 そして。

 

 ふと隣を見る。

 

 桂花がいた。

 

 相変わらず不機嫌そうな顔で酒を飲んでいる。

 

 そこで。

 

 張燕は悪戯心を発揮した。

 

「じゃあ試しに」

 

「はい」

 

「荀彧が俺を主君だと思い込む呪いとかできるか?」

 

 宴会場が爆笑した。

 

「ぶっ!」

 

 白蓮が吹き出す。

 

 星も笑う。

 

 麗羽は扇子で口元を隠した。

 

 恋は団子を食べている。

 

 そして。

 

「何言ってるのよこの馬鹿!」

 

 桂花が怒鳴った。

 

「そんなもの効くわけないでしょ!」

 

「だよな」

 

 張燕も笑う。

 

 完全に冗談だった。

 

 余興である。

 

 ところが。

 

 呪い師の老人たちは真面目な顔をしていた。

 

「できます」

 

 場が静まる。

 

「え?」

 

 張燕が聞き返す。

 

「できます」

 

「本当に?」

 

「お任せください」

 

 なぜか自信満々だった。

 

 そして。

 

 儀式が始まった。

 

 香が焚かれる。

 

 鈴が鳴る。

 

 意味不明な呪文。

 

 怪しさ満点だった。

 

 皆も笑いながら見ている。

 

 桂花だけが怒っていた。

 

「無駄よ!」

 

「絶対効かないわ!」

 

「華琳様以外に忠誠を誓うわけないじゃない!」

 

 その通りだった。

 

 誰もがそう思っていた。

 

 だからこそ余興だった。

 

 しかし。

 

 儀式が終わった瞬間。

 

 空気が変わった。

 

 静寂。

 

 風が止まる。

 

 桂花が固まる。

 

「……」

 

 誰も動かない。

 

「おい?」

 

 張燕が声を掛ける。

 

 桂花はゆっくり顔を上げた。

 

 そして。

 

 その瞳が張燕を捉える。

 

 一瞬。

 

 誰も言葉を失った。

 

 桂花の目が。

 

 今まで見たことがないほど真剣だったからだ。

 

 次の瞬間。

 

 桂花が立ち上がる。

 

 そして。

 

 その場で跪いた。

 

「時雨様」

 

 全員が固まった。

 

「……は?」

 

 張燕も固まる。

 

 桂花は頭を下げている。

 

 本気だった。

 

「私は愚かでした」

 

「え?」

 

「なぜ今まで気付かなかったのでしょう」

 

「いや待て」

 

 桂花は続ける。

 

「私が仕えるべき主君は時雨様だったのですね」

 

 沈黙。

 

 完全な沈黙。

 

 誰も喋れない。

 

 白蓮が固まる。

 

 麗羽が固まる。

 

 星が固まる。

 

 恋だけが団子を食べている。

 

「時雨様」

 

 桂花が顔を上げる。

 

 その表情は真剣そのものだった。

 

「私の全てを捧げます」

 

「待て待て待て」

 

 張燕が慌てる。

 

「何だこれ」

 

「忠誠です」

 

「いや分かる」

 

「時雨様」

 

 桂花はさらに言った。

 

「真名をお預けします」

 

 場の空気が変わる。

 

 真名。

 

 それは絶対の信頼の証。

 

 軽々しく許すものではない。

 

 桂花は静かに言った。

 

「私の真名は桂花です」

 

 誰も笑わなかった。

 

 本気だからだ。

 

「どうかお呼びください」

 

 張燕は頭を抱えた。

 

「成功したのか?」

 

 呪い師たちは頷いた。

 

「成功です」

 

「成功じゃねえ!」

 

 張燕が叫ぶ。

 

 宴会場が大混乱になる。

 

「頭領!」

 

「どうするんですか!」

 

「知らん!」

 

 白蓮も慌てていた。

 

「戻せないのか!?」

 

 呪い師たちは首を傾げる。

 

「さあ」

 

「さあじゃない!」

 

 しかし。

 

 当の桂花は幸せそうだった。

 

「時雨様」

 

「何だ」

 

「お茶を淹れます」

 

「ありがとう」

 

「光栄です」

 

 即答だった。

 

 星が笑いを堪えている。

 

 麗羽は面白そうに見ている。

 

 恋は団子を食べている。

 

 そして張燕だけが頭を抱えていた。

 

 本気で口説いていた。

 

 時間をかけるつもりだった。

 

 だが。

 

 一夜にして全部終わった。

 

「何だこれ……」

 

 張燕は呟く。

 

 その隣では。

 

 桂花が完璧な笑顔で立っていた。

 

「時雨様」

 

「何だ」

 

「これからよろしくお願いいたします」

 

 そう言って深々と頭を下げる。

 

 河北の夜空には満月が浮かんでいた。

 

 そして誰も知らない。

 

 この騒動が後に河北全土を巻き込む大騒ぎへ発展することを。




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