第百十話 失われた右腕
徐州陥落。
その報せは中原全土を駆け巡った。
誰もが驚いた。
曹操が負けた。
あの華琳が徐州を失った。
しかも奪ったのは孫策軍であり、その背後には張燕率いる黒山軍が存在していた。
乱世の勢力図は再び大きく塗り替えられようとしていた。
一方その頃。
許昌。
曹操軍本拠。
城内には重苦しい空気が漂っていた。
玉座に座る華琳――曹操は静かに書簡へ目を通している。
その表情は平静だった。
少なくとも外から見れば。
だが長年仕える者なら理解できた。
今の華琳は機嫌が悪い。
非常に悪い。
執務室には春蘭と秋蘭も呼ばれていた。
二人とも徐州戦から帰還したばかりである。
春蘭の腕には包帯。
秋蘭も傷が残っていた。
敗軍の将として戻ってきたのである。
「申し訳ありません」
秋蘭が頭を下げた。
華琳は答えない。
しばらく沈黙が続く。
やがて。
「顔を上げなさい」
静かな声だった。
二人は顔を上げる。
「徐州を失った責任はあるわ」
華琳は言った。
「けれど今回の敗北は貴方たちだけの責任ではない」
それは事実だった。
敵が悪かった。
張燕。
そして孫策。
二つの勢力が同時に襲いかかってきたのである。
しかも。
張燕は最初から徐州を奪うことだけを考えていなかった。
華琳を苦しめるために動いていた。
「完全にしてやられたわね」
華琳は苦笑する。
徐州戦の報告書を見れば分かる。
補給線。
情報網。
離間工作。
偽情報。
内通者。
黒山軍は徐州へ至るまでに数え切れない策を仕掛けていた。
まるで巨大な罠だった。
「張燕め……」
春蘭が拳を握る。
悔しかった。
戦場で何度も戦った。
だが捕まえられなかった。
それどころか翻弄され続けた。
「次は必ず討ち取る」
春蘭が言う。
華琳は静かに首を振った。
「そう簡単な相手ならここまで苦労していないわ」
その言葉に部屋が静まる。
張燕。
黒山賊の頭領。
かつてはただの山賊だった男。
だが今は違う。
河北最大の実力者である。
そして。
華琳が最も警戒している人物だった。
「しかし」
秋蘭が口を開く。
「まだ我らには戦う力があります」
「ええ」
華琳も頷く。
徐州は失った。
だが本拠は健在。
兵も残っている。
名将もいる。
まだ負けたわけではない。
そのはずだった。
しかし。
華琳の顔には別の影があった。
徐州以上の問題。
それが存在する。
「桂花……」
小さく呟く。
春蘭と秋蘭の表情も曇った。
荀彧。
真名は桂花。
華琳の軍師。
右腕。
最も信頼している臣下の一人。
その桂花が今も河北にいる。
生死は確認されている。
むしろ元気らしい。
元気すぎるくらいだ。
それが逆に不安だった。
「救出部隊は」
華琳が尋ねる。
「全て失敗です」
秋蘭が答えた。
河北の警備は厳重だった。
しかも。
奇妙な報告が届いている。
「桂花殿が」
秋蘭が言い淀む。
「何?」
「張燕の側から離れないそうです」
沈黙。
春蘭が首を傾げる。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味です」
「意味が分からん」
華琳も同意見だった。
意味が分からない。
桂花は自分以外に忠誠を誓わない。
それは誰よりも知っている。
だからこそ不気味だった。
「何かあったのかしら」
華琳が呟く。
胸騒ぎが消えない。
一方その頃。
河北。
鄴。
張燕は軍議を開いていた。
広間には主要な将たちが集まっている。
白蓮。
麗羽。
星。
恋。
そして。
桂花。
「時雨様」
当然のように張燕の隣にいた。
しかもかなり近い。
星が苦笑する。
「相変わらずだな」
「問題ありません」
桂花は真顔だった。
誰も何も言えなくなる。
「それで」
張燕が地図を広げた。
「曹操についてだ」
空気が変わる。
全員が真面目になる。
「徐州を失った今」
張燕が言う。
「奴は必ず動く」
皆も頷いた。
問題はどこへ向かうかだ。
すると。
桂花が立ち上がった。
「時雨様」
「何だ」
「私が説明します」
そう言って地図の前へ出る。
その姿は堂々としていた。
さすがは魏最高の軍師。
「現在の曹操軍ですが」
桂花は地図へ印を付ける。
「兵力配置はこのようになっています」
広間が静まり返る。
白蓮も麗羽も驚いていた。
詳細すぎる。
駐屯地。
補給拠点。
有力武将の配置。
軍備状況。
まるで内部資料だった。
いや。
実際に内部資料なのだ。
桂花本人がいたのだから。
「許昌周辺には精鋭が残っています」
「ふむ」
「ですが徐州戦の損失は軽くありません」
さらに説明が続く。
将軍たちは唸った。
これほど正確な情報は他では得られない。
まさに宝だった。
そして張燕も理解する。
桂花の価値を。
これまで河北が苦手としていたもの。
それは情報戦だった。
だが今は違う。
曹操軍の内部事情が見える。
華琳の癖も分かる。
将軍たちの性格も分かる。
補給計画も予測できる。
まるで相手の手札を覗いているようなものだった。
軍議が終わった後。
白蓮が呟いた。
「反則じゃないか?」
「反則だな」
星も頷く。
敵の軍師が味方になる。
それだけで戦争の難易度は大きく変わる。
その頃。
許昌。
華琳は一人で月を見ていた。
夜風が吹く。
静かな夜だった。
「桂花」
呟く。
返事はない。
いつもなら。
すぐ傍にいた。
支えてくれた。
作戦を考え。
文官たちをまとめ。
誰よりも忠実だった。
そんな桂花がいない。
徐州を失ったことも痛い。
だが。
それ以上に桂花を失ったことが痛かった。
「張燕」
華琳の目が細くなる。
河北の怪物。
山賊の王。
今や最大の敵。
徐州。
荀彧。
二つを奪った男。
「面白いじゃない」
華琳は笑った。
敗北は認める。
失敗も認める。
だが終わりではない。
「必ず取り返すわ」
月を見上げながら呟く。
徐州も。
桂花も。
そして。
張燕との決着も。
こうして中原最大級の勢力同士による戦いは、新たな局面へと進み始めていた。
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