第百十一話 それぞれの継承者
徐州を失ってから数か月。
中原の勢力図は大きく変わっていた。
河北では公孫瓚を盟主とする勢力が安定し、張燕の黒山軍も健在である。
江東では孫策と孫権が徐州を手に入れ、その支配体制を固めていた。
そして魏。
曹操は敗北の傷を癒やしながら、新たな一手を考えていた。
許昌の執務室。
曹操――華琳は地図を見つめていた。
机の上には河北の情報が並んでいる。
公孫瓚。
袁紹。
張燕。
趙雲。
張遼。
そして奪われた桂花。
見れば見るほど頭が痛くなる情報ばかりだった。
春蘭が腕を組む。
「華琳様」
「何かしら」
「河北へ攻め込まないのですか?」
率直な質問だった。
春蘭らしい。
だが華琳は首を横に振った。
「まだ早いわ」
秋蘭も頷く。
現在の河北は強すぎる。
幽州。
并州。
冀州。
青州。
広大な領土と豊富な兵力。
さらに張燕という不確定要素まで存在する。
正面からぶつかるには危険だった。
「ではどうするのです?」
秋蘭が尋ねる。
華琳は地図の西を指差した。
涼州。
董卓滅亡後、混乱が続く西方の大地である。
「西を取る」
静かな声だった。
だがその瞳には確固たる意思が宿っている。
「涼州ですか」
「ええ」
華琳は頷いた。
「河北と決着をつけるなら後ろを気にする余裕はない」
現在の魏は中原の中心に位置している。
東には河北。
南には荊州。
西には涼州。
四方に敵がいる状態だった。
「だから先に西を平らげる」
それが華琳の結論だった。
張燕と戦う。
そのためには背後を固める必要がある。
長期戦になることは間違いない。
「涼州を制圧し、西方を安定させる」
華琳は立ち上がった。
「その後で河北よ」
春蘭の顔が明るくなる。
「ついに張燕と決戦ですな!」
「いずれね」
華琳は笑った。
だがその笑顔の裏には別の感情もある。
桂花。
最愛の軍師。
未だ河北にいる存在。
華琳は窓の外を見た。
「待っていなさい」
小さく呟く。
「必ず迎えに行くわ」
その言葉は誰にも聞こえなかった。
一方その頃。
荊州。
襄陽。
劉備たちは新たな生活を送っていた。
徐州を失い。
曹操に敗れ。
命からがら逃げ延びた先がこの荊州だった。
劉表は彼女たちを温かく迎え入れた。
居城の庭園。
桃香こと劉備は一人歩いていた。
その顔には悩みが浮かんでいる。
「どうしたんですか?」
優しい声が聞こえた。
振り返ると愛紗がいる。
いつものように主君を心配していた。
「愛紗ちゃん」
桃香は少し困ったように笑う。
「また考え事ですか?」
「うん」
愛紗はため息を吐いた。
最近の桃香はずっとこうだった。
理由は分かっている。
劉表である。
荊州牧。
病に侵された老君主。
その人物が桃香へある願いを口にしていた。
荊州を継いでほしい。
それが劉表の願いだった。
最初に聞いた時。
桃香は冗談だと思った。
だが違った。
本気だったのである。
劉表は病床で桃香の手を握りながら言った。
「貴方に託したい」
そう。
本気だった。
現在の荊州は大国である。
人口も多い。
土地も豊か。
中原屈指の勢力だ。
それを譲ると言われたのである。
「私なんかに……」
桃香は今でも信じられなかった。
愛紗は静かに言う。
「桃香様は人を惹きつけます」
「そんなことないよ」
「あります」
愛紗は断言した。
だからこそ徐州で多くの民が慕った。
だからこそ荊州でも歓迎されている。
その時だった。
「おーい!」
元気な声が聞こえる。
鈴々だった。
後ろから朱里も走ってくる。
「桃香様ー!」
はわわ、と言いながら転びそうになっていた。
相変わらずである。
その姿を見て桃香は少し笑った。
「みんな元気だね」
「もちろんなのだ!」
鈴々は胸を張る。
その無邪気な姿に空気が和らぐ。
だが。
悩みは消えない。
その夜。
劉表の屋敷。
病床に伏す劉表は静かに咳き込んでいた。
以前よりも顔色が悪い。
寿命が近いことは誰の目にも明らかだった。
「桃香殿」
「はい」
劉表は穏やかに笑う。
「答えは急がなくてよい」
桃香は黙る。
「ですが」
劉表は窓の外を見る。
「荊州には未来が必要です」
静かな声だった。
「私はもう長くありません」
桃香は俯く。
言葉が出ない。
劉表は続けた。
「民を守れる者」
「人々を導ける者」
「私は貴方だと思っています」
それは重い言葉だった。
あまりにも。
徐州を失ったばかりの桃香には。
「私は……」
声が震える。
「徐州も守れませんでした」
劉表は首を横に振る。
「それでもです」
静かな微笑みだった。
「失敗した者だけが学べることがあります」
桃香は目を閉じた。
徐州。
敗北。
逃亡。
悔しさ。
全てが思い出される。
「貴方なら」
劉表は言った。
「荊州を良き国にできる」
その言葉は桃香の胸に深く残った。
一方。
河北。
鄴では。
「時雨様!」
元気な声が響いていた。
桂花だった。
「何だ」
「新しい情報です!」
張燕は苦笑する。
最近の桂花は完全に秘書だった。
いや。
秘書以上である。
常に隣にいる。
情報を持ってくる。
仕事を片付ける。
そして時々褒めてくる。
慣れてきたとはいえまだ違和感がある。
「曹操が動きます」
桂花が地図を広げる。
張燕の顔が真面目になった。
「ほう」
「西です」
「涼州か」
桂花は頷く。
「華琳様ならそうします」
一瞬だけ昔の呼び方が出た。
だが本人は気付いていない。
「河北との決戦前に背後を固めたいのでしょう」
張燕は笑った。
「らしいな」
確かに華琳らしい。
無謀な戦はしない。
勝つための準備を積み重ねる。
だから強い。
「どうしますか?」
桂花が尋ねる。
張燕は窓の外を見た。
乱世はまだ終わらない。
華琳も動く。
桃香も新たな選択を迫られている。
孫策もまた力を蓄えている。
「さて」
張燕は笑った。
「次は何が起きるかな」
乱世の歯車は止まらない。
河北。
荊州。
それぞれの未来が交差し始めていた。
そして誰も知らない。
この先、中原全土を揺るがす大戦が少しずつ近づいていることを。
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