第百十二話 天の御使いと荊州の風
荊州。
中原南部に広がる豊かな大地。
長江と漢水に支えられた穀倉地帯であり、多くの民が暮らす安定した土地でもある。
徐州を失った劉備軍は、この荊州へと身を寄せていた。
敗北から数か月。
最初こそ失意に沈んでいた者たちも、少しずつ新しい生活に慣れ始めている。
だが、変わったこともあった。
それは一人の男の存在だった。
北郷一刀。
自らを天の御使いと名乗る不思議な青年である。
彼と出会ったのは徐州を脱出した直後だった。
曹操軍に追われながら荊州を目指していた頃、偶然出会った青年だったのだ。
最初は誰も信じなかった。
だが彼が語る知識。
誰も知らない技術。
そして未来を見てきたかのような発言。
それらが積み重なり、気付けば劉備軍の面々は彼を天の御使いとして受け入れていた。
そして今では。
「ご主人様ー!」
元気な声が響く。
鈴々だった。
庭を走り回りながら一刀へ飛びつく。
「おっと」
一刀は苦笑しながら受け止める。
「元気だな」
「もちろんなのだ!」
満面の笑顔。
その様子を見ながら桃香も微笑んでいた。
「ご主人様、お茶どうぞ」
「ありがとう桃香」
「えへへ」
嬉しそうに笑う。
愛紗はその光景を見て複雑そうな顔をしていた。
もちろん一刀を嫌っているわけではない。
むしろ感謝している。
徐州敗走の際も一刀は皆を支えてくれた。
だが。
桃香たちが当然のように「ご主人様」と呼んでいる光景には未だ慣れなかった。
「愛紗」
「はい」
「難しい顔してるぞ」
一刀が笑う。
「いえ」
愛紗は咳払いした。
「少し考え事を」
「荊州の件か?」
愛紗は驚いた。
図星だったからだ。
桃香へ荊州を継がないかという話。
劉表からの申し出。
今の劉備軍最大の問題だった。
一刀は空を見上げる。
「桃香は優しいからな」
その言葉に全員が静かになる。
「だから悩むんだ」
誰も否定できなかった。
桃香は誰よりも民を想う。
だからこそ責任の重さに迷っている。
その時だった。
「朱里ちゃーん!」
遠くから声が聞こえた。
慌ただしく走ってくる少女がいる。
銀色の髪。
小柄な体。
大きな帽子。
「あわわわわっ!」
案の定転んだ。
派手に転んだ。
地面へ顔から突っ込む。
皆が慣れた様子で見ている。
「またか」
一刀が苦笑する。
「雛里ちゃん大丈夫?」
桃香が駆け寄る。
少女――龐統は涙目で起き上がった。
「だ、大丈夫ですぅ……」
涙目だった。
朱里が慌てて駆け寄る。
「雛里ちゃん!」
「朱里ちゃん~」
二人は抱き合った。
仲の良さは昔から変わらない。
朱里こと諸葛亮。
雛里こと龐統。
二人は親友だった。
軍師としての才能も高く、お互いを深く信頼している。
「相変わらずですね」
愛紗が苦笑する。
「うん」
桃香も笑った。
だが。
雛里はすぐ真面目な顔になる。
「ご主人様」
「ん?」
「劉表様がお呼びです」
その場の空気が変わる。
皆が顔を見合わせた。
最近の劉表は体調が悪い。
呼び出しがあるたび不安になる。
「行こう」
一刀が立ち上がる。
桃香も頷いた。
劉表の屋敷。
広い部屋の中央。
病床に横たわる劉表の姿があった。
以前より明らかに痩せている。
顔色も良くない。
寿命が近いことは誰の目にも明らかだった。
「来てくれましたか」
劉表が微笑む。
「劉表様」
桃香が頭を下げる。
一刀たちも続いた。
「今日は大した話ではありません」
そう言いながらも劉表の目は真剣だった。
やがて視線が桃香へ向く。
「まだ答えは出ませんか」
桃香は俯く。
「はい……」
劉表は怒らない。
ただ優しく頷く。
「当然でしょう」
静かな声だった。
「荊州は大きな国です」
責任も重い。
簡単に決められる話ではない。
「ですが」
劉表は続ける。
「私は貴方に託したい」
桃香は何も言えなかった。
すると。
一刀が前へ出る。
「劉表様」
「何でしょう」
「一つ聞いてもいいですか」
劉表は頷いた。
「なぜ桃香なんです?」
その質問は皆が知りたかったことだった。
荊州には有力者もいる。
豪族もいる。
家臣もいる。
なのに何故外部から来た桃香なのか。
劉表は少し考えた。
そして微笑む。
「民が笑っているからです」
全員が首を傾げる。
劉表は窓の外を見る。
「劉備殿が来てから」
「避難民が笑うようになりました」
「子供たちが集まるようになりました」
「人が希望を語るようになりました」
それが答えだった。
軍事力ではない。
血筋でもない。
人望だった。
「国とは民です」
劉表は静かに言う。
「民が望む者こそ国主に相応しい」
桃香の目に涙が浮かぶ。
それほどまでに評価されていたのだ。
その夜。
屋敷の庭。
桃香は一人で空を見上げていた。
そこへ一刀がやって来る。
「眠れないか」
「うん」
桃香は苦笑した。
夜風が優しく吹く。
しばらく沈黙が続いた。
「ご主人様」
「ん?」
「私にできるかな」
一刀は答えない。
すぐには。
しばらく考えた後。
「分からない」
そう言った。
桃香は少し驚く。
だが一刀は続けた。
「誰にも分からない」
「……」
「でも」
一刀は笑った。
「桃香が本気で民のことを考えるなら」
「きっと大丈夫だ」
根拠はない。
だが不思議と安心できる言葉だった。
桃香は少しだけ笑う。
「ありがとう」
夜空には満天の星が広がっていた。
一方その頃。
遠く離れた河北。
張燕は桂花から報告を受けていた。
「荊州ですか」
「そうだ」
桂花が地図を見る。
「劉備が後継者候補になっているらしい」
張燕は面白そうに笑った。
桃香らしい。
どこへ行っても人を惹きつける。
「乱世は面白いな」
そう呟く。
北では河北。
西では涼州。
南では荊州。
東では江東。
それぞれが次の時代へ向けて動き始めていた。
そしてその中心には。
張燕。
曹操。
孫策。
劉備。
乱世を揺るがす英雄たちが存在していた。
まだ誰も知らない。
この先訪れる大戦乱が、彼ら全員の運命を大きく変えていくことを。
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