第百十五話 天の御使いの影
劉表の死からしばらくの時が流れた。
荊州は大きな混乱に陥ることなく、新たな主を迎えていた。
劉備。
桃香。
徐州を追われた少女は今や荊州の主となり、広大な土地と数え切れない民の未来を背負う立場になっていた。
襄陽の政庁では毎日のように政務が続いている。
税の問題。
治安の維持。
豪族との調整。
水路の整備。
避難民への対応。
国を治めるということは、桃香が思っていた以上に大変なことだった。
今日も机の上には書簡が山のように積まれている。
「うぅ……」
桃香は頭を抱えていた。
「終わらないよぉ……」
「桃香様」
愛紗が苦笑する。
「まだ半分です」
「半分!?」
絶望する桃香。
そんな主君の姿に愛紗も思わず笑ってしまう。
徐州時代とは比べ物にならない仕事量だった。
しかし。
そんな桃香を支える者たちもいる。
愛紗。
鈴々。
朱里。
雛里。
そして。
北郷一刀。
天の御使いと呼ばれる青年だった。
政庁の別室。
一刀は朱里と雛里を前に地図を広げていた。
その表情は真剣である。
「荊州は安定してきたな」
「はい」
朱里が頷く。
「まだ問題はありますけど、大きな反乱はありません」
「民も桃香様を支持しています」
雛里も続く。
二人とも軍師として優秀だった。
その評価は荊州の重臣たちの間でも高まっている。
一刀は満足そうに頷いた。
「なら次だな」
その言葉に二人は顔を見合わせた。
「次……ですか?」
朱里が尋ねる。
一刀は地図を指差した。
西。
荊州のさらに西。
広大な盆地。
益州。
「劉章」
一刀が呟く。
現在の益州を治める君主。
豊かな土地を持ちながら積極的な動きを見せない勢力だった。
「将来的には避けて通れない」
一刀は静かに言う。
その目は遠くを見ていた。
「桃香の理想を実現するなら」
「荊州だけじゃ足りない」
朱里と雛里は黙り込む。
それは乱世の現実だった。
理想だけでは国は守れない。
大きな勢力にならなければ生き残れない。
そして一刀は理解している。
曹操。
張燕。
孫策。
彼らが動き続ける以上、劉備も立ち止まれない。
「まだ先の話だ」
一刀は笑った。
「今は準備だけでいい」
しかし。
その準備は既に始まっていた。
各地へ送られる使者。
商人たちから集められる情報。
益州内部の情勢。
豪族の動き。
一刀は裏で静かに動いていた。
誰にも気付かれないように。
そして。
そんな一刀の存在は徐々に天下へ広まっていく。
天の御使い。
空から現れた不思議な青年。
未来を知る者。
奇跡を起こす者。
様々な噂が飛び交っていた。
中には。
「空を飛んでいた」
「雷を操る」
「千里先が見える」
などという話まである。
もちろん大半は尾ひれが付いたものだった。
だが。
噂というものは勝手に大きくなる。
そして今。
その話は河北にも届いていた。
鄴。
城下町。
「聞いたか?」
「ああ」
「天の御使いだろ?」
酒場ではその話題で持ち切りだった。
「荊州には天から来た男がいるらしい」
「劉備様を支えてるんだってな」
「すげえな」
商人たちも盛り上がる。
旅人たちも噂する。
まるで英雄譚だった。
その日の夜。
鄴城。
広間では宴会が開かれていた。
白蓮。
麗羽。
星。
恋。
桂花。
河北の主要人物が集まっている。
「天の御使い?」
白蓮が酒を飲みながら笑う。
「何だそれ」
「面白そうですわ」
麗羽も興味津々だった。
「本当に空から降ってきたのでしょうか」
星が苦笑する。
「それはないだろう」
「でも各地で噂になっています」
桂花が言う。
情報収集は相変わらず早い。
「荊州ではかなり人気があるそうです」
「へぇ」
白蓮は感心した。
「桃香も大変だな」
その時だった。
誰かが気付く。
張燕が黙っていることに。
「時雨?」
白蓮が呼ぶ。
だが返事がない。
張燕は酒杯を見つめたまま動かなかった。
その表情は。
どこか暗かった。
「どうした?」
白蓮が首を傾げる。
ようやく張燕が顔を上げる。
「いや」
短く答える。
「何でもない」
だが。
何でもない顔ではなかった。
その様子に桂花が目を細める。
「時雨様」
「何だ」
「何か知っているのですか?」
空気が少し変わる。
張燕はしばらく黙っていた。
やがて。
小さくため息を吐く。
「……天の御使い、か」
その声は妙に重かった。
白蓮たちは顔を見合わせる。
「知ってるのか?」
張燕は窓の外を見た。
夜空には星が輝いている。
しばらくして。
ぽつりと呟いた。
「昔な」
誰も口を挟まない。
「似たような話を聞いたことがある」
その言葉に皆が驚く。
張燕は基本的に過去を語らない。
だからこそ珍しかった。
「昔?」
「ああ」
「黒山にいた頃だ」
視線が遠くなる。
まるで過去を思い出しているようだった。
「天から来る者」
「時代を変える者」
「未来を知る者」
静かな声だった。
だが。
どこか不穏だった。
「その話が本当なら」
張燕は酒を飲み干す。
「厄介だな」
誰も意味を理解できなかった。
しかし。
張燕の顔は明らかに曇っていた。
それは。
曹操と対峙する時とも違う。
袁紹を追い詰めていた時とも違う。
もっと別の感情だった。
警戒。
不安。
あるいは――。
「時雨様?」
桂花が呼ぶ。
張燕は笑った。
いつもの笑顔だった。
「気にするな」
そう言って席を立つ。
だが。
誰の目にも分かった。
張燕は何かを知っている。
それもかなり深い何かを。
夜風が吹く。
張燕は一人で城壁へ向かった。
遠くを見る。
南。
荊州の方角。
「北郷一刀……」
小さく呟く。
その名前を口にした瞬間。
普段の余裕は消えていた。
「まさか本当に現れるとはな」
夜空の星だけがその言葉を聞いていた。
そして乱世は静かに動き続ける。
河北の覇者たち。
荊州の新たな主。
江東の小覇王。
西へ進軍する曹操。
そして天の御使い。
誰も知らない。
その存在が、これから天下の流れを大きく変えていくことを。
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