【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第百十六話 西涼の錦、河北へ

第百十六話 西涼の錦、河北へ

 

 

 西方の空を覆っていた戦火が、ついに終わりを迎えた。

 

 涼州。

 

 古くから騎馬民族と中原を繋ぐ要衝として知られる広大な土地。

 

 その地を支配していた馬騰軍は、曹操軍との激戦の末に敗北した。

 

 許昌へ届けられた戦勝報告を見ながら、華琳こと曹操は静かに目を閉じた。

 

 勝利だった。

 

 決して楽な戦ではなかった。

 

 西涼騎兵は強かった。

 

 馬騰もまた名将だった。

 

 だが、最終的に勝ったのは曹操だった。

 

「涼州制圧完了」

 

 秋蘭が報告する。

 

 華琳はゆっくり頷いた。

 

「損害は?」

 

「予想より大きいですが許容範囲です」

 

「馬騰は?」

 

「討死」

 

 静かな報告だった。

 

 部屋が少しだけ静まる。

 

 敵ではあったが、一国の主として敬意を払うべき人物だった。

 

 華琳は窓の外を見た。

 

 これで西は平定された。

 

 涼州。

 

 雍州。

 

 司州。

 

 豫州。

 

 兗州。

 

 広大な版図が魏の支配下にある。

 

 だが華琳は満足していなかった。

 

 その視線は北へ向いている。

 

 河北。

 

 公孫瓚。

 

 張燕。

 

 そして奪われた桂花。

 

「次の準備を始めましょう」

 

 その言葉に春蘭と秋蘭が頷く。

 

 魏はさらに大きくなった。

 

 そして天下は再び動き始める。

 

 一方その頃。

 

 涼州の荒野を一頭の馬が走っていた。

 

 昼も夜も関係なく。

 

 ただひたすら東へ。

 

 逃げるために。

 

 生き延びるために。

 

「はぁ……はぁ……!」

 

 茶色のポニーテールを揺らしながら少女は馬を駆る。

 

 顔は土埃だらけだった。

 

 鎧も傷だらけ。

 

 目には疲労が浮かんでいる。

 

 だがその瞳だけは死んでいなかった。

 

 馬超。

 

 西涼の錦馬超。

 

 真名を翠という少女だった。

 

 彼女は敗れた。

 

 母である馬騰は戦死。

 

 軍は壊滅。

 

 仲間たちは散り散りになった。

 

「くそっ……!」

 

 悔しさで歯を食いしばる。

 

 脳裏に最後の戦いが蘇る。

 

 押し寄せる魏軍。

 

 崩れる戦線。

 

 倒れていく仲間たち。

 

 そして。

 

 最後まで槍を振るい続けた母の姿。

 

 あの時。

 

 翠は命令された。

 

 逃げろ、と。

 

 生き延びろ、と。

 

 だから逃げた。

 

 だが。

 

 その代償は大きかった。

 

「姉さん!」

 

「翠!」

 

「こっちです!」

 

 妹や従姉妹たちと離れ離れになったのだ。

 

 乱戦の中で見失った。

 

 今どこにいるのかも分からない。

 

 生きているかすら分からない。

 

「くそぉ……」

 

 涙が滲む。

 

 だが泣いている暇はない。

 

 追手が来るかもしれない。

 

 翠は再び馬を走らせた。

 

 そして数週間後。

 

 河北。

 

 冀州。

 

 鄴。

 

 巨大な城門の前で一人の少女が倒れた。

 

 衛兵たちが慌てて駆け寄る。

 

「おい!」

 

「大丈夫か!」

 

 少女は限界だった。

 

 食料もない。

 

 体力もない。

 

 馬も途中で力尽きた。

 

 それでもここまで来た。

 

 最後の気力だけで。

 

「……たすけて」

 

 その一言を残して意識を失った。

 

 数日後。

 

 翠が目を覚ますと見知らぬ天井があった。

 

「ん……?」

 

 ぼんやりと起き上がる。

 

 柔らかい布団。

 

 温かい部屋。

 

 そして。

 

「起きたか」

 

 聞き慣れない声。

 

 振り返ると一人の男が椅子に座っていた。

 

 黒髪。

 

 鋭い目。

 

 どこか気だるそうな雰囲気。

 

 だが油断できない空気を纏っている。

 

「誰だお前!」

 

 反射的に飛び起きる。

 

 槍を探す。

 

 ない。

 

「落ち着け」

 

 男は苦笑した。

 

「ここは河北だ」

 

「河北?」

 

「そうだ」

 

 そこで翠は思い出す。

 

 逃げたこと。

 

 倒れたこと。

 

 そして。

 

 ここまで来たことを。

 

「俺は張燕」

 

 男は名乗った。

 

 その瞬間。

 

 翠の目が見開かれる。

 

「張燕!?」

 

 知らないはずがない。

 

 天下に名を轟かせる黒山軍の頭領。

 

 曹操ですら警戒する男。

 

「本物か!?」

 

「多分な」

 

 適当な返事だった。

 

 翠はしばらく固まった。

 

 想像と違った。

 

 もっと怖い男だと思っていた。

 

「飯食うか?」

 

「食う!」

 

 即答だった。

 

 張燕は吹き出した。

 

 数刻後。

 

 食堂。

 

 翠は凄まじい勢いで食べていた。

 

「うまい!」

 

「もっと食え」

 

「食う!」

 

 周囲の人々が苦笑する。

 

 恋は無言で見ている。

 

 白蓮は驚いている。

 

 麗羽は扇子で口元を隠していた。

 

「よく食べますわね」

 

「元気そうで安心だな」

 

 白蓮が笑う。

 

 翠は五杯目の飯を平らげた。

 

 ようやく落ち着いた頃。

 

 張燕が聞く。

 

「これからどうする」

 

 翠の顔が曇った。

 

 母は死んだ。

 

 故郷も失った。

 

 仲間も散った。

 

 行く場所がない。

 

 その現実が胸に刺さる。

 

「……分からない」

 

 小さな声だった。

 

 先ほどまでの元気が消えている。

 

 張燕はしばらく黙った。

 

 やがて。

 

「ならここにいろ」

 

 翠が顔を上げる。

 

「え?」

 

「行く場所がないなら河北にいろ」

 

 当然のように言った。

 

 翠は目を丸くする。

 

「いいのか?」

 

「別に構わん」

 

 白蓮も頷いた。

 

「歓迎する」

 

「そうですわね」

 

 麗羽も珍しく賛成した。

 

「西涼の勇将を追い返す理由はありませんわ」

 

 翠は呆然とする。

 

 警戒されると思っていた。

 

 利用されると思っていた。

 

 だが違った。

 

「……ありがとう」

 

 ぽつりと呟く。

 

 その顔は少しだけ泣きそうだった。

 

 その日の夜。

 

 城壁の上。

 

 翠は一人で空を見ていた。

 

 遠く西の方角。

 

 故郷がある場所。

 

 もう帰れないかもしれない場所。

 

「母さん……」

 

 風が吹く。

 

 その時。

 

 隣に誰かが立った。

 

 張燕だった。

 

「眠れないか」

 

「まあな」

 

 翠は苦笑する。

 

 少し沈黙が続く。

 

 やがて張燕が言った。

 

「妹や仲間は探させる」

 

 翠が振り返る。

 

「本当か?」

 

「ああ」

 

「生きているなら見つかるかもしれん」

 

 翠の目に光が戻る。

 

「ありがとう!」

 

 勢いよく頭を下げる。

 

 張燕は苦笑した。

 

 単純だな、と。

 

 だが。

 

 そこがこの少女の良いところでもあった。

 

 西涼の錦馬超。

 

 敗北した英雄の娘。

 

 新たな居場所を得た少女。

 

 そして河北にはまた一人、新たな将が加わった。

 

 遠く許昌では華琳が北を見据え。

 

 荊州では桃香と一刀が未来を描き。

 

 江東では孫策が交州を狙う。

 

 乱世は終わらない。

 

 だが今だけは。

 

 翠にとって河北の夜空は、久しぶりに少しだけ温かく見えたのだった。




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