【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第百十七話 翠という名

第百十七話 翠という名

 

 

 河北へ来てから数日が過ぎていた。

 

 馬超は少しずつ鄴での生活に慣れ始めていた。

 

 最初こそ見知らぬ土地への警戒心があったものの、河北の者たちは思った以上に親切だった。

 

 白蓮は気さくで話しやすい。

 

 麗羽は妙に偉そうだが面倒見は悪くない。

 

 恋は不思議な少女だったが、一緒に食事をしていると何となく落ち着く。

 

 そして何より。

 

 張燕。

 

 あの男だけはどうにも掴みどころがなかった。

 

 朝。

 

 訓練場では兵士たちの掛け声が響いていた。

 

 翠は借り受けた十文字槍――銀閃を振るう。

 

 風を切る音が響く。

 

 鋭い突き。

 

 横薙ぎ。

 

 振り下ろし。

 

 さすがは西涼の錦馬超と呼ばれた武人だった。

 

 その技量は並の将を遥かに超えている。

 

「おお」

 

 訓練を見ていた兵士たちから感嘆の声が上がる。

 

「速いな」

 

「流石だ」

 

 翠は汗を拭った。

 

 だが表情は暗い。

 

 槍を振っている間だけは余計なことを考えずに済む。

 

 母の死。

 

 故郷の喪失。

 

 行方の知れない妹たち。

 

 考えれば考えるほど胸が苦しくなる。

 

「悩み事か」

 

 後ろから声がした。

 

 振り返ると張燕がいた。

 

 いつの間に来たのか分からない。

 

 相変わらず気配が薄い男だった。

 

「別に」

 

 翠は視線を逸らした。

 

「嘘だな」

 

「うっ」

 

 一瞬で見抜かれた。

 

 張燕は苦笑する。

 

「分かりやすい」

 

「そんなことないぞ」

 

「分かりやすい」

 

 即答だった。

 

 翠は不満そうに頬を膨らませる。

 

 その様子を見て張燕は少し笑った。

 

 初めて会った時より表情が増えている。

 

 河北の生活に少しずつ馴染んでいる証拠だった。

 

「妹たちのことか」

 

 張燕が聞く。

 

 翠は黙った。

 

 図星だった。

 

「探してる」

 

 張燕は言う。

 

「西から来た商人にも声をかけてる」

 

「本当か?」

 

「ああ」

 

 翠はしばらく何も言えなかった。

 

 助けてもらっただけではない。

 

 探してもくれている。

 

 それが嬉しかった。

 

「ありがとな」

 

 小さな声だった。

 

 張燕は肩をすくめる。

 

「気にするな」

 

 それだけだった。

 

 恩着せがましさはない。

 

 だからこそ翠には不思議だった。

 

 何故ここまでしてくれるのか。

 

 昼。

 

 食堂。

 

 翠は山盛りの飯を食べていた。

 

 向かいには恋が座っている。

 

 恋も山盛りだった。

 

「うまいな」

 

「うん」

 

 二人とも黙々と食べる。

 

 妙に気が合っていた。

 

 そこへ星が現れる。

 

「また大食い大会か」

 

「違うぞ」

 

「違う」

 

 二人同時だった。

 

 星は笑う。

 

 最近の河北は賑やかだった。

 

 翠という新しい風が入ったからだ。

 

 単純で真っ直ぐ。

 

 思ったことをすぐ口にする。

 

 どこか昔の白蓮を思い出させる性格だった。

 

 そしてその日の夜。

 

 翠は城壁の上にいた。

 

 風が吹いている。

 

 夜空には無数の星。

 

 西涼でもよく見た景色だった。

 

 だが今は違う。

 

 故郷ではない。

 

 それを思うと胸が少し痛んだ。

 

「こんな所にいたか」

 

 また張燕だった。

 

「暇なのか?」

 

 翠が聞く。

 

「まあな」

 

「嘘つけ」

 

「ばれたか」

 

 張燕は笑った。

 

 河北最大の実力者が暇なわけがない。

 

 それでもこうして顔を出す。

 

 それが張燕だった。

 

 二人は並んで夜空を見上げる。

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

 やがて翠が口を開く。

 

「変な奴だな」

 

「誰が」

 

「お前」

 

 即答だった。

 

「そうか?」

 

「そうだ」

 

 翠は腕を組む。

 

「天下で一番怖い山賊だと思ってた」

 

「ひどい言われようだな」

 

「実際そうだろ」

 

 否定できなかった。

 

 黒山軍の悪名は天下中に知れ渡っている。

 

 翠も当然聞いていた。

 

 だから最初は警戒していた。

 

 だが。

 

 実際に会ってみると違った。

 

「何で助けたんだ?」

 

 翠は聞いた。

 

 ずっと気になっていたことだった。

 

 張燕は少し考える。

 

 そして。

 

「放っておけなかった」

 

 それだけだった。

 

「それだけか?」

 

「ああ」

 

「変な奴だな」

 

「お互い様だ」

 

 二人とも笑った。

 

 夜風が吹く。

 

 不思議と居心地が良かった。

 

 やがて翠は真剣な顔になる。

 

「張燕」

 

「何だ」

 

 少しだけ迷う。

 

 だが決めた。

 

 この男になら。

 

 そう思った。

 

「真名を教える」

 

 張燕の目が少し見開かれる。

 

 真名。

 

 それは恋姫の世界において特別な意味を持つ。

 

 心から信頼した相手にしか許さない名。

 

 命を預けるに等しいもの。

 

「いいのか」

 

 張燕が聞く。

 

 翠は頷いた。

 

「ああ」

 

 迷いはなかった。

 

「馬超は通り名みたいなもんだ」

 

 そして。

 

 真っ直ぐ張燕を見る。

 

「本当の名前は翠」

 

 夜風が吹く。

 

「それがあたしの真名だ」

 

 静かな声だった。

 

 だがその中には確かな信頼が込められていた。

 

 張燕はしばらく黙っていた。

 

 やがて。

 

「翠か」

 

 その名を呼ぶ。

 

 翠は少し照れ臭そうに笑った。

 

「ああ」

 

「いい名前だ」

 

「そうか?」

 

「そうだ」

 

 それだけで嬉しかった。

 

 母からもらった名前。

 

 大切な名前。

 

 今はもう母はいない。

 

 だがその名は残っている。

 

「ありがとな」

 

 翠が言う。

 

「またか」

 

「何回言っても足りないんだよ」

 

 張燕は苦笑した。

 

 単純だ。

 

 本当に単純だ。

 

 だがだからこそ信用できる。

 

 裏表がない。

 

 思ったことをそのまま口にする。

 

 戦場では危ういかもしれない。

 

 しかし仲間としては心強い。

 

「翠」

 

「何だ?」

 

「妹たちは見つける」

 

 翠が目を見開く。

 

「生きてるなら必ずだ」

 

 その言葉には不思議な説得力があった。

 

 張燕だからだろう。

 

 翠はゆっくり頷く。

 

「ああ」

 

 信じてみようと思った。

 

 この男を。

 

 そして。

 

 河北という場所を。

 

 遠く離れた許昌では曹操が北を見据え。

 

 荊州では劉備が新たな国作りに励み。

 

 江東では孫策が次の戦を考えている。

 

 天下は動き続ける。

 

 乱世は終わらない。

 

 だが今夜だけは。

 

 西涼を失った少女の心に、少しだけ安らぎが生まれていた。

 

 馬超。

 

 いや。

 

 翠。

 

 その名を知る者が、また一人増えた夜だった。




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