第百十八話 天の国の記憶
夜の鄴は静かだった。
昼間は人で溢れ返る城下町も、夜更けともなれば明かりがまばらになる。
城の一角。
執務室には一人の男だけが残っていた。
張燕。
時雨。
河北最大の影の実力者。
机の上には大量の書簡と地図が広げられている。
その視線は天下全土へ向けられていた。
「増えたな……」
ぽつりと呟く。
かつて黒山賊と呼ばれていた頃とは比べものにならない。
勢力は巨大になった。
幽州。
并州。
冀州。
青州。
四州を支配する河北。
表向きの主は白蓮――公孫瓚だ。
それで問題ない。
あの真っ直ぐな性格は民に好かれる。
王として立つなら張燕より遥かに向いている。
そして配下も充実していた。
星。
趙雲。
武勇と知略を兼ね備えた名将。
恋。
天下無双の呂布。
一騎当千どころか一軍に匹敵する戦力。
霞。
張遼。
機動戦を得意とする優秀な将。
そして新たに加わった翠。
馬超。
錦馬超と呼ばれ若いが将来性は抜群だった。
さらに。
桂花。
荀彧。
曹操軍最高クラスの軍師。
河北が長年欲していた存在。
文官も充実している。
麗羽。
袁紹。
能力だけ見れば間違いなく一流。
美羽。
袁術。
未熟な部分は多いが人を惹きつける力がある。
七乃。
張勲。
実務能力は非常に高い。
気付けば河北は天下有数の人材国家になっていた。
張燕は地図へ目を落とす。
「問題はここからだ」
河北は安定した。
内政も順調。
民も増えている。
だが乱世は終わっていない。
むしろこれからが本番だった。
視線が西へ向く。
曹操。
華琳。
涼州を手に入れたことでさらに巨大化した。
兗州。
豫州。
司州。
雍州。
そして涼州。
今や中原最大級の国家である。
「厄介だな」
張燕は苦笑する。
曹操は間違いなく動く。
しかも準備を整えてから。
それが分かるから怖い。
徐州を失った。
桂花も失った。
それでも立て直してくる。
それが曹操だった。
次に視線を南東へ移す。
江東。
孫策。
雪蓮。
「こっちは分かりやすい」
思わず笑った。
交州を狙っている。
十中八九間違いない。
あの女は止まらない。
勢いのまま進み続ける。
徐州。
揚州。
さらに交州。
南方の覇者になるつもりだろう。
今は同盟相手だ。
だが永遠の同盟など存在しない。
乱世とはそういうものだった。
そして。
最後に視線が南へ向く。
荊州。
桃香。
劉備。
そして――
北郷一刀。
張燕の表情が曇った。
「天の御使い……」
その名を口にした瞬間だった。
部屋の空気が少しだけ重くなる。
最近になって急激に広まった噂。
天から来た男。
未来を知る者。
天の御使い。
天下の人々は面白半分で語っている。
だが張燕は違った。
その話を聞いた時からずっと引っ掛かっていた。
なぜなら。
知っていたからだ。
昔から。
ずっと昔から。
黒山賊になる以前。
まだ幼かった頃。
張燕はある人物から聞かされていた。
張牛角。
自分を拾った山賊の頭領。
育ての親。
恩人。
その人が酒を飲みながら語っていた話。
『天の国って知ってるか?』
幼い張燕は首を傾げた。
『知らねえ』
『だろうな』
張牛角は笑っていた。
今思えば不思議な笑みだった。
『空の上にある国だ』
『空の上?』
『ああ』
そして。
張牛角はこう言った。
『そこにはな、見たこともない道具がある』
『道具?』
『鉄の箱が勝手に走る』
『嘘だろ』
『本当だ』
『鳥みたいに空を飛ぶ乗り物もある』
『もっと嘘だ』
『本当だって』
当時は信じなかった。
酒の席の冗談だと思っていた。
だが。
張牛角は時々おかしな知識を持っていた。
見たこともない料理。
見たこともない考え方。
見たこともない価値観。
まるで別世界を知っているようだった。
そしてある日。
張牛角は言った。
『私はな』
珍しく真面目な顔だった。
『この世界の人間じゃない』
張燕は笑った。
当然だ。
信じられるわけがない。
だが。
張牛角は笑わなかった。
『天の国から来た』
『……』
『召喚されたんだ』
その時の目を張燕は覚えている。
冗談を言う目ではなかった。
『いつかまた来る』
張牛角は空を見上げた。
『私みたいなのが』
『何だよそれ』
『天の御使いって奴だ』
張燕は目を閉じる。
今でも忘れていない。
あの日の会話を。
あの日の表情を。
張牛角は本気だった。
本気で自分は別世界から来たと言っていた。
「まさかな……」
張燕は呟く。
あれから何十年も経った。
張牛角は死んだ。
墓もある。
だが。
もし本当だったら?
もし北郷一刀が張牛角と同じ存在なら?
「厄介だ」
張燕は椅子へ深く座る。
曹操より厄介かもしれない。
孫策より厄介かもしれない。
なぜなら未知だからだ。
敵か味方かも分からない。
何を知っているのかも分からない。
何を目的にしているのかも分からない。
そして。
張牛角が残した最後の言葉を思い出す。
『もし天の御使いに会ったら気を付けろ』
『なんでだよ』
『善人もいる』
『悪人もいる』
『人間だからな』
その時。
扉が開いた。
「時雨様?」
桂花だった。
書簡を抱えている。
「まだ起きていたんですか」
「ああ」
「寝ないと倒れますよ」
張燕は苦笑した。
「心配してくれるのか」
「当然です!」
即答だった。
桂花らしい。
「今の河北は時雨様中心で回っているんですから!」
張燕は少し笑う。
昔では考えられない状況だった。
山賊だった自分に。
こんな仲間ができるなど。
「どうしました?」
桂花が首を傾げる。
「いや」
張燕は窓の外を見る。
遠く南。
荊州の方向。
「少し昔を思い出していただけだ」
桂花は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
夜は更けていく。
曹操。
孫策。
劉備。
そして北郷一刀。
天下の英雄たちが動き続ける中。
張燕は静かに考えていた。
育ての親である張牛角が語った天の国の話を。
そして。
乱世の先に待つ未来を。
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