第百二十一話 蜀王誕生
益州譲渡の知らせは天下を震撼させた。
戦がなかったからだ。
数万、数十万の兵を動かし、多くの血を流して奪い合うのが乱世の常識である。
しかし劉備は違った。
剣を抜かず。
矢を放たず。
益州という大国を手に入れた。
その中心にいたのは天の御使い――北郷一刀だった。
襄陽の城内では連日祝賀の声が上がっていた。
荊州と益州。
二つの大州を支配する勢力となった劉備軍は、一気に天下有数の大国へと成長したのである。
だが当の桃香は、相変わらず執務室で唸っていた。
「書類が増えてるよぉ……」
机には山のような書簡。
以前の二倍。
いや三倍近い。
益州統治のための報告書が次々と運び込まれている。
愛紗が額を押さえた。
「当然です」
「領土が倍近くになったのですから」
「うぅ……」
桃香は机へ突っ伏した。
そんな様子を見て朱里と雛里が苦笑する。
一刀も思わず笑っていた。
しかし笑ってばかりもいられない。
益州を得たことで天下の勢力図は大きく変化した。
魏王・曹操。
呉王・孫策。
そして劉備。
もはや地方勢力ではない。
誰が見ても覇権を争う三大勢力の一角だった。
その日の夜。
軍議が開かれた。
広間には主要人物が集まっている。
愛紗。
鈴々。
朱里。
雛里。
一刀。
そして荊州と益州の有力家臣たち。
地図が広げられる。
広大な領土。
荊州と益州。
二つを合わせれば人口も資源も莫大だった。
朱里が口を開く。
「現在の国力だけなら魏にも対抗できます」
「呉とも十分渡り合えます」
皆が頷く。
もはや弱小勢力ではない。
堂々たる大国である。
その時。
一刀が静かに立ち上がった。
「桃香」
「なに?」
「そろそろ決める時だと思う」
全員の視線が集まる。
「何を?」
一刀は真っ直ぐ桃香を見た。
「王になるかどうか」
空気が変わった。
広間が静まり返る。
愛紗も目を見開く。
朱里と雛里も息を呑んだ。
王。
その言葉の意味は重い。
華琳は既に魏王。
雪蓮も呉王。
天下の二大勢力は王を名乗っている。
だが桃香だけは違った。
未だに荊州牧。
益州牧。
その立場のままだ。
「わ、私が王?」
桃香は戸惑った。
「そんなの無理だよ」
「無理じゃない」
一刀は言った。
「今の桃香には資格がある」
優しい声だった。
しかしその言葉には確信があった。
「民に支持されている」
「仲間にも恵まれている」
「領土もある」
「国力もある」
「何より」
一刀は笑う。
「みんながついていきたいと思っている」
桃香は黙り込む。
愛紗が前へ出た。
「桃香様」
「愛紗ちゃん……」
「私は賛成です」
真剣な顔だった。
「私は貴方に仕えるためにいます」
鈴々も元気よく手を挙げる。
「鈴々も賛成なのだ!」
朱里も頷く。
「桃香様なら大丈夫です」
雛里も続いた。
「私たちが支えます」
一人。
また一人。
皆が賛同していく。
桃香はしばらく俯いていた。
やがて。
ゆっくりと顔を上げた。
「みんながそう言うなら」
少しだけ不安そうに。
それでも微笑んでいた。
「頑張る」
こうして決まった。
劉備は王を名乗る。
そして数日後。
襄陽では盛大な式典が開かれた。
各地から家臣たちが集まる。
兵士たちも整列している。
民衆も集まった。
広場は人で埋め尽くされていた。
その中央へ桃香が進み出る。
歓声が上がる。
誰もが彼女を見ている。
桃香は少し緊張していた。
しかし隣には一刀がいた。
後ろには仲間たちがいる。
だから前を向けた。
「本日より」
桃香は宣言する。
「私は王を名乗ります」
歓声が広がる。
そして。
「国の名は――」
一刀が静かに頷いた。
その名は既に決まっている。
「蜀」
その言葉が響いた。
蜀。
益州の古き名。
山々に守られた豊かな土地。
新たな国家の誕生だった。
「蜀王万歳!」
誰かが叫ぶ。
「蜀王万歳!」
歓声はどんどん大きくなる。
蜀王・劉備。
天下三人目の王が誕生した瞬間だった。
だが。
それだけでは終わらなかった。
その後の軍議で、一刀はもう一つの提案を行う。
「本拠地を移そう」
桃香が首を傾げる。
「どこに?」
一刀は地図の西を指差した。
「成都」
益州最大の都市。
天然の要塞。
豊かな穀倉地帯。
守りやすく攻めにくい天下有数の名城。
「成都を首都にする」
朱里が目を見開く。
すぐに理解した。
確かに合理的だった。
荊州は交通の要衝だが戦乱も多い。
しかし成都なら違う。
守りやすい。
内政もしやすい。
国の中心として理想的だった。
「なるほどです!」
朱里が頷く。
「蜀の首都に相応しいですね」
雛里も賛成した。
愛紗も異論はない。
桃香は少し寂しそうだった。
「襄陽ともお別れかぁ」
だが王となった以上、感傷だけでは動けない。
やがて決断する。
「分かった」
桃香は立ち上がった。
「成都へ行こう」
こうして大移動が始まる。
蜀王・劉備。
その本拠地は成都へ移されることになった。
その報せは瞬く間に天下へ広がった。
許昌。
華琳は報告書を見つめる。
「蜀王、ね」
青い瞳が細められる。
予想していた。
だが予想以上に早かった。
建業。
雪蓮は豪快に笑った。
「面白くなってきたじゃない!」
呉王は喜んでいた。
強敵が増えるほど燃える性格だった。
そして。
河北。
鄴。
張燕もまた報告書を読んでいた。
「蜀か」
小さく呟く。
白蓮。
麗羽。
桂花。
星。
皆が沈黙していた。
魏。
呉。
蜀。
ついに三つの王国が誕生したのである。
そして誰もが思う。
次は河北だと。
だが張燕だけは別のことを考えていた。
蜀王となった桃香ではない。
北郷一刀。
天の御使い。
その男が天下をどこへ導こうとしているのか。
夜空を見上げながら、張燕は静かに目を細めるのだった。
乱世はさらに大きく動き始めていた。
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