第百二十二話 燕王の決意
蜀王誕生の知らせが河北へ届いてから数日。
鄴の城は表面上こそ平穏だったが、水面下では大きな変化の波が押し寄せていた。
魏王・曹操。
呉王・孫策。
蜀王・劉備。
天下の有力者たちが次々と王を名乗り始めている。
もはや諸侯の時代ではない。
王の時代だった。
そして河北だけが取り残されていた。
幽州。
并州。
冀州。
青州。
四州を治める巨大勢力でありながら、公孫瓚は未だに王を名乗っていない。
それは白蓮自身の性格にも理由があった。
彼女は元々、権力欲が強い人間ではない。
民を守りたい。
仲間を守りたい。
その気持ちは強い。
だが王になりたいと思ったことは一度もなかった。
だからこそ悩んでいた。
その夜。
白蓮は密かに張燕を呼び出した。
場所は鄴城の奥。
普段は誰も使わない小さな部屋だった。
机と椅子があるだけの簡素な部屋。
そこに二人だけがいる。
「珍しいな」
張燕が椅子へ腰を下ろした。
「密談か?」
白蓮は苦笑した。
「そんな大層なものじゃない」
だが表情は真剣だった。
張燕もすぐに察する。
軽い話ではない。
しばらく沈黙が流れる。
やがて白蓮が口を開いた。
「時雨」
「ん?」
「河北を頼む」
張燕は一瞬意味が分からなかった。
そして次の言葉で理解する。
「私の代わりに」
部屋が静かになる。
白蓮は視線を逸らさない。
本気だった。
「なるほど」
張燕は頬杖をついた。
「それで?」
「私は向いてない」
白蓮は即答した。
「王とか」
「支配者とか」
「そういうの」
迷いのない声だった。
ずっと考えていたのだろう。
「河北をここまで大きくしたのは時雨だ」
「違う」
張燕が即座に否定する。
「違わない」
白蓮も譲らない。
「幽州を救ったのも」
「袁紹を取り込んだのも」
「徐州を奪ったのも」
「孫策と同盟したのも」
「全部お前だ」
その通りだった。
張燕がいなければ今の河北は存在しない。
誰も否定できない事実である。
「だから」
白蓮は言う。
「お前が王になれ」
真っ直ぐだった。
公孫瓚らしい。
駆け引きもない。
計算もない。
ただ本心を伝えている。
だが。
次の瞬間。
張燕が吹き出した。
「ぶっ」
「おい!」
「ははははは!」
大笑いだった。
白蓮の額に青筋が浮かぶ。
「笑うな!」
「いや無理だろ」
「何がだ!」
「俺が王?」
張燕は腹を抱えている。
「冗談だろ」
「冗談じゃない!」
「山賊だぞ俺」
「今さらだ!」
確かに今さらだった。
黒山賊の頭領という肩書きはある。
だが今の張燕はそれ以上の存在だ。
しかし。
それでも張燕は首を振った。
「駄目だな」
即答だった。
白蓮が目を見開く。
「なんでだ」
「向いてない」
今度は張燕が言う番だった。
「俺は裏で動く方が好きなんだよ」
それは本心だった。
人前に立つのは苦手ではない。
だが好きでもない。
前に出るより裏から支える方が性に合っている。
「第一」
張燕は笑う。
「民が困る」
「そんなことない」
「ある」
断言だった。
「俺は山賊だ」
「それを忘れるな」
白蓮は黙る。
張燕は続けた。
「だが」
「白蓮は違う」
その言葉に空気が変わる。
「お前は民に好かれてる」
「兵にも好かれてる」
「将にも好かれてる」
「だから王に向いてる」
白蓮は複雑そうな顔をした。
「買い被りだ」
「違うな」
張燕は珍しく真面目だった。
「白蓮」
「何だ」
「お前がいるから皆ついてきてるんだ」
白蓮は言葉を失う。
星。
霞。
恋。
翠。
麗羽。
桂花。
皆をまとめているのは張燕だと思っていた。
だが張燕は違うと言う。
「俺だけじゃ無理だ」
静かな声だった。
「白蓮がいるから河北はまとまってる」
それは真実だった。
張燕は優秀だ。
だが恐れられてもいる。
白蓮は違う。
人を惹きつける。
信頼される。
それは才能だった。
「だから」
張燕は笑った。
「腹を括れ」
白蓮は黙った。
そして。
長い沈黙が流れる。
夜は深い。
城の外から虫の声が聞こえる。
やがて。
白蓮が小さく息を吐いた。
「ずるいな」
「何が」
「そうやって人に押し付ける」
「押し付けてるのはお前だろ」
思わず二人とも笑った。
昔から変わらない。
山賊だった頃から。
戦場を駆け回っていた頃から。
二人の関係は変わらない。
そして。
白蓮はゆっくり立ち上がった。
「分かった」
その目に迷いはない。
「やる」
張燕が頷く。
「そうこなくちゃな」
白蓮は窓の外を見る。
遠く広がる河北の夜景。
自分が守ってきた土地。
仲間たちと築き上げた国。
「王になる」
静かな宣言だった。
「それで国の名前は?」
張燕が聞く。
白蓮は少し考える。
そして笑った。
「決まってる」
迷いはなかった。
「燕」
その一言だった。
燕。
かつて幽州に存在した古代国家の名。
北方を象徴する国。
そして。
公孫瓚が築き上げた新たな国家。
「悪くない」
張燕は頷いた。
「だろ?」
白蓮も笑う。
こうして決まった。
河北は新たな時代へ進む。
魏。
呉。
蜀。
そして燕。
天下四王の時代が始まろうとしていた。
その翌日。
鄴城では大規模な準備が始まる。
家臣たちは慌ただしく動き回り。
民たちは何が起きるのかと噂し始める。
そして張燕は一人、城壁の上に立っていた。
遠くを見つめる。
許昌。
建業。
成都。
それぞれの王たちがいる。
「面白くなってきたな」
小さく呟く。
だがその表情はどこか穏やかだった。
少なくとも今夜だけは。
長年共に歩いてきた友が、自らの覚悟を決めたことが嬉しかったのである。
まもなく天下へ新たな知らせが走る。
燕王・公孫瓚。
北方の王の誕生を告げる知らせが。
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