第百二十五話 黒山の嫁騒動
燕王・公孫瓚の即位からしばらく経った頃。
河北はかつてないほど平和だった。
魏の曹操は西方統治に力を注ぎ。
呉の孫策は交州方面へ視線を向け。
蜀の劉備は荊州と益州の安定に追われている。
天下は束の間の静寂を迎えていた。
そして。
そんな平和な時代だからこそ起きる問題もあった。
鄴の酒場。
昼間から黒山軍の古参たちが集まっていた。
「なあ」
一人の男が酒を飲みながら言った。
「頭領ってまだ結婚しねえのか?」
その一言だった。
周囲が一斉に反応する。
「あー」
「それな」
「確かに」
次々と頷く。
話題の中心は当然。
張燕。
時雨。
黒山軍の頭領だった。
「おかしいだろ」
「年齢的にもそろそろだろ」
「というか遅い」
「遅いな」
全員一致だった。
昔なら分かる。
黒山賊として生きていた頃は明日生きている保証もなかった。
結婚どころではない。
だが今は違う。
河北は安定している。
地位もある。
金もある。
名声もある。
天下有数の英雄である。
「なのに独り身」
「何でだ?」
「本人にやる気がない」
「それだ」
即座に結論が出た。
その場にいた全員が納得する。
張燕は女性に興味がないわけではない。
だが恋愛になると異常に鈍い。
昔からそうだった。
「よし」
古参の一人が立ち上がる。
「決めた」
「何を?」
「嫁探しだ」
その瞬間。
酒場が盛り上がった。
「おお!」
「やるか!」
「頭領の嫁探し!」
こうして。
誰も頼んでいない大騒動が始まった。
翌日。
鄴城。
張燕は執務室で書類と格闘していた。
「面倒だな……」
隣では桂花が仕事をしている。
「文句言わないでください」
「お前が半分やれ」
「嫌です」
即答だった。
そんな時。
扉が勢いよく開く。
ドンッ!
「頭領!」
黒山軍の古参たちだった。
何故か全員真剣な顔をしている。
「何だ」
「大事な話です!」
「嫌な予感しかしない」
張燕が顔をしかめる。
そして。
古参たちは声を揃えた。
「結婚してください!」
部屋が静まった。
数秒。
沈黙。
「は?」
張燕が固まる。
桂花も固まる。
意味が分からない。
「頭領!」
「そろそろ嫁を!」
「黒山軍の悲願です!」
「意味が分からん!」
張燕は本気で困惑していた。
しかし古参たちは止まらない。
「候補も考えてあります!」
「考えるな!」
だが既に遅かった。
その日の夕方には。
河北全土へ噂が広がっていた。
張燕の嫁候補会議。
最初に名が挙がったのは当然。
趙雲。
星だった。
「一番自然だろ」
「付き合い長いし」
「お似合いだ」
確かに。
古参の黒山兵から見ればそうだった。
長年共に戦い。
互いを信頼している。
だが。
本人の反応は。
「は?」
だった。
星は酒を吹いた。
「私が時雨と?」
「そうだ!」
「いやいやいや」
星は苦笑する。
「家族みたいなものだぞ」
その一言で却下された。
次。
呂布。
恋。
「どうだ?」
恋は肉を食べながら首を傾げた。
「?」
「頭領の嫁」
「?」
「結婚」
「?」
理解していない。
却下。
次。
張遼。
霞。
「ありやな」
と本人は笑った。
周囲は盛り上がる。
「おお!」
「本命か!」
だが。
「でも時雨にその気ないやろ」
終了だった。
次。
馬超。
翠。
「はぁ!?」
翠は顔を真っ赤にする。
「なんであたしなんだよ!」
「仲良いじゃん」
「そういうのじゃねえ!」
全力否定だった。
だが。
その慌て方を見た黒山兵たちは逆に盛り上がる。
「怪しい」
「怪しいな」
「怪しいぞ」
「だから違うって!」
翠の叫びは誰にも届かなかった。
そして。
最も危険な候補が現れる。
袁紹。
麗羽。
「麗羽様は?」
その言葉を聞いた瞬間。
全員が黙った。
「ありえる」
「ありえるな」
「かなりありえる」
袁紹は張燕に振り回され。
降伏し。
今では完全に河北の重臣。
しかも。
妙に仲が良い。
その頃。
麗羽本人は紅茶を飲んでいた。
「わたくしが?」
優雅に微笑む。
だが。
耳は少し赤い。
「ふふん」
扇子を広げる。
「当然ですわね」
「おお!」
「否定しない!」
「有力候補だ!」
騒ぎはさらに大きくなる。
夜。
張燕は頭を抱えていた。
「何なんだこれは」
本気で意味が分からない。
隣では白蓮が笑っている。
「人気者だな」
「他人事だと思って」
「面白いし」
完全に楽しんでいた。
そこへ。
星。
霞。
翠。
麗羽。
恋。
桂花。
何故か全員集まる。
「何だこの面子」
「知らん」
星も困惑していた。
だが。
全員が張燕を見る。
妙な空気だった。
「……」
「……」
「……」
張燕だけが理解できない。
「どうした?」
その一言だった。
全員がため息を吐く。
「駄目だこいつ」
霞が言った。
「駄目ですね」
桂花も同意する。
「全然分かってない」
星も苦笑する。
白蓮は腹を抱えて笑っていた。
「何なんだよ!」
張燕だけが蚊帳の外だった。
その夜。
黒山軍の古参たちは酒を飲みながら語っていた。
「頭領は鈍い」
「鈍いな」
「天下一鈍い」
全員一致だった。
だが。
それでも彼らはどこか楽しそうだった。
戦乱の時代。
多くの仲間を失った。
苦しい戦いもあった。
だが今は違う。
こうして馬鹿話ができる。
それが嬉しかった。
「まあ」
一人が笑う。
「そのうち何とかなるだろ」
「だな」
「頭領だしな」
酒場には笑い声が響く。
そしてその頃。
当の張燕は。
「本当に意味が分からん」
執務室で一人首を傾げていた。
黒山軍最大の問題は。
魏でも。
呉でも。
蜀でもない。
自分たちの頭領の恋愛音痴だと。
誰もがそう思っていたのであった。
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