【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第百二十六話 星が見上げる背中

第百二十六話 星が見上げる背中

 

 

 夜の鄴は静かだった。

 

 昼間は賑わう城下町も、夜更けになれば落ち着きを取り戻す。

 

 城壁の上。

 

 一人の女性が夜空を見上げていた。

 

 趙雲。

 

 真名を星。

 

 水色の髪を風になびかせながら、彼女は黙って月を眺めていた。

 

 遠くでは兵士たちの見張りの声が聞こえる。

 

 平和だった。

 

 少なくとも今の河北は。

 

 袁紹との戦い。

 

 青州侵攻。

 

 徐州侵略。

 

 曹操との対立。

 

 数え切れない戦乱を乗り越えた結果だった。

 

 だが。

 

 そんな静かな夜だからこそ、考えてしまうことがある。

 

「何をしている」

 

 後ろから声がした。

 

 聞き慣れた声だった。

 

 振り返るまでもない。

 

「時雨か」

 

 張燕だった。

 

 いつものように気配もなく現れる。

 

 星は小さく笑った。

 

「眠れなくてな」

 

「珍しいな」

 

「そうか?」

 

「お前はどこでも寝るだろ」

 

「私は恋ではないぞ」

 

 思わず二人とも笑う。

 

 昔から変わらない。

 

 気付けばこうして話している。

 

 戦場でも。

 

 旅の途中でも。

 

 酒場でも。

 

 そして今も。

 

 張燕は城壁に腰を下ろした。

 

 星も隣へ座る。

 

 二人の間に気まずさはない。

 

 長い年月を共に過ごしてきた。

 

 今さら言葉を探す必要もなかった。

 

「燕王か」

 

 星が呟く。

 

「ああ」

 

「白蓮も遠くへ行ったな」

 

「そうだな」

 

 張燕は笑う。

 

 だがその表情はどこか嬉しそうだった。

 

 星はその横顔を見る。

 

 昔から変わらない。

 

 誰かの成功を心から喜べる男。

 

 自分の手柄を他人へ押し付ける男。

 

 欲がない。

 

 だからこそ危なっかしい。

 

 そして。

 

 だからこそ人が集まる。

 

「時雨」

 

「ん?」

 

「後悔したことはないのか」

 

 不意の質問だった。

 

 張燕が首を傾げる。

 

「何をだ?」

 

「王にならなかったことだ」

 

 星は真剣だった。

 

 誰もが思っている。

 

 河北最大の功労者は張燕だ。

 

 本人が望めば王になれた。

 

 誰も反対しなかっただろう。

 

 だが。

 

 張燕は笑った。

 

「ないな」

 

 即答だった。

 

「少しも?」

 

「少しも」

 

 迷いがない。

 

 それが張燕らしかった。

 

「俺は面倒なの嫌いだし」

 

「今も十分面倒だろう」

 

「確かに」

 

 二人はまた笑う。

 

 そして。

 

 星は少しだけ視線を落とした。

 

「そういう所だ」

 

「何が?」

 

「お前は昔から変わらん」

 

 張燕は意味が分からないという顔をする。

 

 その表情を見て。

 

 星は心の中でため息を吐いた。

 

 本当に鈍い。

 

 黒山軍の連中が頭を抱える理由も分かる。

 

 翠が慌てる理由も分かる。

 

 霞が笑う理由も分かる。

 

 麗羽が微妙な顔をする理由も分かる。

 

 そして。

 

 自分自身がこんな気持ちになる理由も。

 

 全部分かっていた。

 

 最初は尊敬だった。

 

 黒山で出会った頃。

 

 張燕はまだ若かった。

 

 だが不思議な男だった。

 

 無茶をする。

 

 危険な場所へ真っ先に飛び込む。

 

 自分が傷付くことを恐れない。

 

 それでいて仲間を見捨てない。

 

 そんな男だった。

 

 何度も助けられた。

 

 何度も背中を見てきた。

 

 気付けば。

 

 その背中を追いかけるようになっていた。

 

 いつからだろう。

 

 尊敬が別の感情へ変わったのは。

 

 星にも分からない。

 

 ただ。

 

 気付いた時には遅かった。

 

 もう戻れなかった。

 

「星?」

 

 張燕が不思議そうに見る。

 

「どうした」

 

「いや」

 

 星は笑う。

 

「何でもない」

 

 嘘だった。

 

 本当はたくさんある。

 

 伝えたいことも。

 

 聞きたいことも。

 

 だが。

 

 今は言わない。

 

 言えない。

 

 何故なら。

 

 今の関係が心地良かった。

 

 壊したくなかった。

 

 戦友。

 

 仲間。

 

 親友。

 

 それ以上になりたい気持ちはある。

 

 だが。

 

 それで今を失うのは嫌だった。

 

「そうか」

 

 張燕は深く考えない。

 

 本当に鈍い。

 

 星は思わず笑ってしまった。

 

「なんだ」

 

「いや」

 

「だから何だ」

 

「ふふ」

 

 笑うだけだった。

 

 張燕は不満そうな顔をする。

 

 その様子がおかしくて。

 

 星はさらに笑った。

 

 月明かりが二人を照らす。

 

 静かな夜だった。

 

 やがて張燕が立ち上がる。

 

「そろそろ戻るか」

 

「ああ」

 

 星も立ち上がる。

 

 二人は並んで歩き出した。

 

 城へ向かって。

 

 その少し後ろを。

 

 偶然通りかかった霞が見ていた。

 

「おー」

 

 思わず声が漏れる。

 

 隣には翠がいた。

 

「なんだよ」

 

「見てみ」

 

 二人の視線の先。

 

 並んで歩く張燕と星。

 

 自然だった。

 

 長年連れ添った夫婦のように。

 

「……」

 

 翠は黙る。

 

「気付いてへんな」

 

 霞が呆れたように言う。

 

「何が?」

 

「時雨や」

 

 即答だった。

 

「星の気持ち」

 

 翠も思わず苦笑する。

 

「無理だろ」

 

「無理やな」

 

 二人とも納得する。

 

 天下の英雄。

 

 河北最大の策士。

 

 だが恋愛だけは壊滅的。

 

 それが張燕だった。

 

 そして。

 

 少し前を歩く星は知らない。

 

 自分の気持ちが周囲には意外と知られていることを。

 

 ただ一人。

 

 当の張燕だけが気付いていなかった。

 

 夜風が吹く。

 

 星はそっと隣の背中を見る。

 

 追い続けてきた背中。

 

 これからもきっと追い続ける背中。

 

 今はまだ。

 

 それで十分だった。

 

 少なくとも今夜だけは。




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