第百二十九話 燕と呉の婚礼
冀州。
鄴。
燕王国の中心地。
かつて袁紹が天下を夢見たこの大都市は、今や燕王・公孫瓚の王都として栄華を極めていた。
そして今日。
その鄴がかつてないほどの熱気に包まれていた。
戦勝祝いでもない。
王の即位式でもない。
婚礼だった。
しかも主役は天下に名を轟かせる二人。
燕王国の影の立役者にして黒山軍の頭領、張燕。
そして呉王国を率いる江東の小覇王、孫策。
燕と呉。
二大勢力を結ぶ婚姻同盟。
その婚礼の日がついにやって来たのである。
城下町は朝から大騒ぎだった。
「始まるぞ!」
「見たか!? 呉の使節団の数!」
「すげぇな!」
「頭領が本当に結婚するなんて!」
特に盛り上がっているのは黒山軍だった。
彼らにとって張燕は王以上の存在である。
家族。
恩人。
頭領。
そんな男の婚礼なのだ。
酒場は朝から満席。
既に酔っ払っている者までいる。
「めでてぇ!」
「今日は飲むぞ!」
「三日三晩飲むぞ!」
誰も止められない。
そんな中。
城内の一室では張燕が深いため息を吐いていた。
「帰りたい」
ぽつりと言った。
目の前には豪華な婚礼衣装。
黒を基調とした格式高い装束だった。
だが。
張燕の顔は戦場に出る前よりも険しい。
「今さら無理だ」
白蓮が笑う。
今日は王として正式に列席するため正装していた。
「逃げたらどうなると思う?」
「黒山軍に捕まる」
「正解」
即答だった。
張燕も理解している。
今逃げたら河北中の黒山軍が総出で追いかけてくる。
冗談ではなく本当に。
「時雨」
星が声をかける。
今日の星も美しかった。
青い衣装に身を包み、いつもより少しだけ大人びて見える。
「なんだ」
「似合っているぞ」
「そうか」
「ああ」
それだけだった。
だが星は少しだけ微笑んだ。
胸の奥にある感情を隠しながら。
隣では霞が大笑いしている。
「いやー!」
「ついに時雨も年貢の納め時やな!」
「お前な」
「嫁さん王様やで?」
「他人事だと思って」
翠も苦笑している。
「なんか信じられねぇな」
「それは同感だ」
恋は相変わらずだった。
「む?」
「時雨、結婚?」
「ああ」
「よく分からない」
「だろうな」
少しだけ場が和む。
そんな時だった。
外が騒がしくなる。
「呉王様御到着!」
声が響いた。
全員が顔を上げる。
いよいよだった。
城門の外。
豪華な行列が進んでくる。
先頭には呉の旗。
そして中央。
一頭の白馬に乗った女性がいた。
長い桃色の髪。
堂々とした姿。
誰もが振り返るほどの美貌。
孫策だった。
「ははっ!」
雪蓮は大笑いしていた。
「すごい歓迎ね!」
沿道の民衆が歓声を上げる。
徐州戦以来。
孫策の人気も河北では高かった。
「雪蓮様」
隣で冥琳が呆れている。
「少しは王らしくしてください」
「無理!」
即答だった。
冥琳は諦める。
もう慣れている。
やがて一行は王城へ到着した。
白蓮が出迎える。
「ようこそ燕へ」
「久しぶりね白蓮!」
二人は笑い合う。
そして。
雪蓮の視線が動く。
その先には張燕。
「よう」
張燕が手を挙げた。
「よう!」
雪蓮も笑う。
不思議だった。
政治的な婚姻。
本来ならもっと堅苦しいものになるはずだった。
だが二人にはそれがない。
長年の戦友。
同盟者。
信頼できる仲間。
そんな関係が先にあった。
「逃げなかったのね」
雪蓮が言う。
「逃げられる状況か?」
「確かに」
二人とも笑った。
そして。
婚礼の儀が始まる。
大広間には燕と呉の重臣たちが並ぶ。
白蓮。
麗羽。
桂花。
星。
霞。
翠。
恋。
そして冥琳や蓮華。
双方の中枢が集結していた。
歴史的な瞬間だった。
司儀が進み出る。
厳かな空気。
誰もが見守る。
やがて。
張燕と孫策が中央へ立つ。
静寂。
そして。
二人は誓いを交わした。
燕と呉の友好。
両国の未来。
共に歩むこと。
形式的な言葉ではあった。
だが。
その場にいた誰もが理解していた。
この婚姻が持つ意味を。
魏王・曹操。
蜀王・劉備。
天下は三強時代ではなくなった。
今や。
燕と呉はほぼ一体と言える関係になったのである。
儀式が終わった瞬間。
外から歓声が聞こえた。
「おおおおおおおお!」
民衆だった。
黒山軍だった。
酒樽が開かれる。
宴が始まる。
楽団が演奏を始める。
踊り子が舞う。
巨大な宴会だった。
夜になる頃には誰もが酒を飲んでいた。
霞は既に出来上がっている。
翠も笑っている。
恋は肉を山ほど食べている。
麗羽は優雅に酒を飲み。
美羽は甘味に夢中だ。
そして。
張燕は宴席の端で酒を飲んでいた。
「疲れた」
「まだ始まったばかりよ?」
隣には雪蓮。
王冠を外している。
いつもの彼女だった。
「戦の方が楽だな」
「それは分かる」
二人は笑った。
その姿を遠くから見ている者がいた。
星だった。
静かに杯を傾ける。
胸の奥は少し痛んだ。
だが。
不思議と後悔はなかった。
時雨が選んだ道ではない。
国が選んだ道だ。
そして彼は受け入れた。
ならば自分も受け入れる。
それが趙雲という女だった。
夜空には満月が浮かんでいる。
その下で。
燕と呉を結ぶ婚礼は盛大に続いていた。
天下は再び大きく動く。
だが今夜だけは戦も陰謀もない。
ただ。
一人の山賊の頭領と。
一人の王の婚礼を祝う夜だった。
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