第百三十話 呉王の決意
燕と呉を結ぶ婚礼から数日。
鄴の城では未だに祝いの空気が残っていた。
黒山軍の連中などは完全に浮かれている。
「頭領!」
「新婚生活どうですか!」
「酒持ってきました!」
「帰れ」
張燕は本気で追い返した。
しかし追い返しても追い返してもやって来る。
まるで祭りが終わらない。
そもそも黒山軍の連中は張燕の結婚を何年も待ち続けていたのである。
ようやく実現したのだ。
喜ばないはずがなかった。
そして何より。
当の雪蓮本人が問題だった。
「時雨ー」
執務室の扉が開く。
雪蓮だった。
しかも当然のように張燕の隣へ座る。
いや。
座るどころではない。
腕を抱き込んだ。
「おい」
「なに?」
「仕事中だ」
「知ってる」
全く離れる気配がない。
張燕は頭を抱えた。
桂花は額に青筋を浮かべている。
「仕事の邪魔です」
「大丈夫大丈夫」
「大丈夫じゃありません」
「時雨が何とかするわ」
「しません」
即答だった。
雪蓮は楽しそうに笑う。
完全に遊んでいた。
その様子を見ていた麗羽が紅茶を飲みながら呟く。
「新婚ですわね」
「ですわね」
美羽が頷く。
「うむ!」
七乃まで頷いていた。
張燕だけが疲れた顔をしている。
そんな光景は既に日常になりつつあった。
雪蓮は元々距離感が近い。
さらに婚姻後は遠慮がなくなった。
朝。
時雨。
昼。
時雨。
夜。
時雨。
暇があれば張燕の所へ来る。
本人は楽しそうだった。
「雪蓮」
冥琳が呆れたように言う。
「少しは王としての威厳を」
「あるじゃない」
「ありません」
即答だった。
そのやり取りに周囲は苦笑する。
だが。
そんな平和な日々の中。
ある夜。
雪蓮は珍しく真面目な顔をしていた。
城壁の上。
夜風が吹く。
時雨と雪蓮の二人だけだった。
「珍しいな」
張燕が言う。
「何が?」
「静かだ」
いつもなら笑っている。
騒いでいる。
だが今夜は違った。
雪蓮は夜空を見上げている。
その横顔はどこか大人びて見えた。
「時雨」
「ん?」
「話があるの」
張燕は黙る。
冗談ではないことが分かった。
やがて雪蓮はゆっくり口を開いた。
「交州を取ったら」
そこで一度言葉を切る。
「呉王をやめる」
張燕は目を細めた。
予想外だった。
「……本気か」
「本気よ」
迷いのない声だった。
風が吹く。
雪蓮の桃色の髪が揺れる。
「次の王は蓮華」
孫権だった。
「前から決めてたの」
張燕は黙って聞く。
「江東はもう安定してる」
「徐州もある」
「交州も手に入れば十分」
確かにそうだった。
呉は既に大国である。
基盤は完成している。
あとは維持するだけだ。
「だから」
雪蓮は笑った。
「そろそろ引退」
「早くないか」
「そう?」
「早い」
即答だった。
まだ若い。
天下有数の英雄である。
引退など考える年齢ではない。
しかし雪蓮は首を横に振る。
「違うの」
「?」
「王様って向いてないのよ」
意外な言葉だった。
「冥琳には怒られるけど」
苦笑する。
「本当は自由に暴れ回る方が好き」
それは張燕にも分かる。
孫策という女はそういう人間だった。
先頭に立つ。
戦場を駆ける。
笑いながら敵陣へ飛び込む。
そんな生き方が似合う。
「蓮華は真面目だから」
雪蓮は言う。
「王様向きよ」
「そうかもな」
張燕も頷いた。
蓮華なら立派な王になるだろう。
「それで」
雪蓮は振り返る。
そして。
いつもの笑顔を浮かべた。
「王様辞めたら」
「ん?」
「いっぱい遊ぶ」
張燕は思わず吹き出した。
「それが本音か」
「もちろん!」
即答だった。
真面目な話をしていたと思ったらこれである。
やはり雪蓮だった。
「時雨と旅もしたいし」
「嫌な予感しかしない」
「建業も案内するし」
「嫌な予感しかしない」
「海も見に行く!」
「聞いてない」
雪蓮は楽しそうだった。
本当に。
心の底から。
未来を楽しみにしている。
その姿を見ていると。
張燕も少しだけ笑ってしまう。
不思議な女だった。
豪快で。
自由で。
無茶苦茶で。
だが誰よりも仲間を大切にする。
「時雨」
「なんだ」
雪蓮は少しだけ真面目な顔になる。
「ありがとね」
「何が」
「結婚してくれて」
張燕は少し驚いた。
こんな顔をすることもあるのかと思った。
いつもの雪蓮ではない。
一人の女性としての表情だった。
「別に」
張燕は視線を逸らす。
「国のためだ」
「そうかもね」
雪蓮は笑う。
だが。
それだけではないことも知っていた。
張燕は優しい。
本人は認めないだろう。
だが雪蓮は知っている。
だからこそ。
この縁談を持ちかけたのだ。
「交州を取ったら」
雪蓮は夜空を見る。
「新しい時代ね」
「ああ」
魏。
蜀。
燕。
そして呉。
天下は変わり続けている。
その先に何があるのか。
まだ誰にも分からない。
だが今だけは。
二人とも穏やかな気持ちで夜空を見上げていた。
そしてその頃。
城の下では。
「頭領と雪蓮様だ!」
「仲良しだな!」
「いいぞー!」
黒山軍の連中が勝手に盛り上がっていた。
張燕はまだ知らない。
彼らが既に孫策を「頭領の奥方」と呼び始めていることを。
そして。
それを聞いた雪蓮が大喜びしていることを。
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