【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第百三十一話 約束の口づけ

第百三十一話 約束の口づけ

 

 

 婚礼が終わり、しばらくの時が流れた。

 

 呉の使節団が建業へ帰還する日がやって来る。

 

 雪蓮もまた、呉王としての務めがある以上、いつまでも鄴に滞在するわけにはいかなかった。

 

 交州攻略。

 

 呉の未来。

 

 孫家が抱える仕事は山ほどある。

 

 そのため今日、雪蓮は一度建業へ戻ることになっていた。

 

 鄴の城門前。

 

 大勢の人々が見送りに集まっている。

 

 冥琳。

 

 蓮華。

 

 呉の将兵たち。

 

 そして燕の重臣たち。

 

 白蓮もいる。

 

 麗羽もいる。

 

 星もいる。

 

 霞も翠も恋もいた。

 

 皆が集まる中、雪蓮はいつものように明るく笑っていた。

 

「じゃあ行ってくるわ!」

 

 相変わらずだった。

 

 別れを悲しむような雰囲気ではない。

 

 まるで少し遠出するだけのような気軽さである。

 

「ちゃんと帰れよ」

 

 張燕が言う。

 

「失礼ね」

 

 雪蓮が笑う。

 

「私を誰だと思ってるの?」

 

「問題ばかり起こす呉王」

 

「ひどい!」

 

 周囲から笑い声が上がった。

 

 冥琳などは「その通りだ」と頷いている。

 

 雪蓮は不満そうに頬を膨らませた。

 

 しかしそれも長くは続かなかった。

 

 出発の時間が近付いている。

 

 雪蓮もそれを理解していた。

 

 笑顔のまま。

 

 だが少しだけ寂しそうに。

 

 張燕を見る。

 

「時雨」

 

「ん?」

 

「見送りはここまで?」

 

「十分だろ」

 

「もっと惜しみなさいよ」

 

「無理だ」

 

「つまらない男」

 

 そう言いながらも雪蓮は楽しそうだった。

 

 そして。

 

 少しだけ周囲を見回す。

 

 皆がこちらを見ている。

 

 当然だった。

 

 天下に名高い燕と呉を結ぶ婚姻である。

 

 誰もが二人を見ていた。

 

 その時だった。

 

 雪蓮が一歩前へ出る。

 

 張燕の目の前まで近付く。

 

「雪蓮?」

 

「んー」

 

 何かを考えている顔だった。

 

 次の瞬間。

 

 周囲が固まった。

 

 雪蓮が張燕の襟を掴み。

 

 そのまま顔を近付けたのである。

 

「なっ――」

 

 張燕が何か言う前に。

 

 雪蓮は軽く唇を重ねた。

 

 一瞬だった。

 

 本当に一瞬。

 

 だが。

 

 その場にいた全員が見ていた。

 

 完全な沈黙。

 

 時間が止まったようだった。

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

 誰も言葉を発しない。

 

 そして数秒後。

 

「おおおおおおおおおおおおおっ!!」

 

 黒山軍が爆発した。

 

「頭領ぉぉぉ!!」

 

「やったぁぁぁ!!」

 

「奥方様ぁぁぁ!!」

 

 大歓声である。

 

 兵士たちが大騒ぎになった。

 

 霞は腹を抱えて笑っている。

 

「やりよった!」

 

 翠は顔を真っ赤にしている。

 

「こんな大勢の前で!?」

 

 白蓮は呆れ顔だった。

 

「雪蓮らしいな……」

 

 麗羽は扇子で口元を隠している。

 

「大胆ですわね」

 

 星だけは静かだった。

 

 だが驚きは隠せない。

 

 そして。

 

 当の張燕は完全に固まっていた。

 

 雪蓮はそんな彼を見て満足そうに笑う。

 

「これで少しは寂しくなる?」

 

「ならん」

 

「嘘ね」

 

 即答だった。

 

 だが雪蓮は見抜いていた。

 

 張燕はこういう時に素直ではない。

 

 昔からそうだ。

 

 だから余計に面白い。

 

「時雨」

 

 雪蓮は少しだけ真面目な顔になる。

 

 先程までの悪戯っぽい笑みではない。

 

 王としてでもない。

 

 一人の女性としての表情だった。

 

「交州を手に入れたら」

 

「……」

 

「続きをしてあげる」

 

 張燕は嫌な予感しかしなかった。

 

「何のだ」

 

「今の」

 

 雪蓮が笑う。

 

 そして耳元で小さく囁いた。

 

「約束」

 

 張燕はため息を吐いた。

 

 本当に自由な女だった。

 

 だが。

 

 どこか楽しそうな自分がいることにも気付いていた。

 

 雪蓮は満足そうに馬へ乗る。

 

 冥琳が頭を抱えている。

 

「最後まで自由だったな」

 

「褒め言葉ね!」

 

「違う」

 

 蓮華は顔を赤くしていた。

 

「姉様は本当にもう……」

 

 そんな妹の反応を見て雪蓮は大笑いする。

 

 そして。

 

 馬上から最後に手を振った。

 

「時雨!」

 

「なんだ」

 

「ちゃんと待ってなさいよ!」

 

「知らん」

 

「待ってなさい!」

 

 それだけ言うと。

 

 雪蓮は大きく笑った。

 

 呉の旗が風にはためく。

 

 使節団が動き出す。

 

 建業への帰路だった。

 

 張燕はその背中を見送る。

 

 やがて姿が見えなくなる。

 

 すると。

 

 背後から黒山軍の大歓声が響いた。

 

「頭領ぉぉぉぉ!!」

 

「すげええええ!!」

 

「天下一の嫁だぁぁぁ!!」

 

「黙れ」

 

 張燕は本気で言った。

 

 だが誰も聞かない。

 

 宴会の準備を始めている者までいる。

 

 結局。

 

 その日は一日中からかわれることになった。

 

 そして遠く南では。

 

 雪蓮が空を見上げながら笑っていた。

 

「交州か」

 

 呟く。

 

 その瞳には強い光が宿っていた。

 

 次なる目標。

 

 次なる戦。

 

 そして。

 

 約束の続き。

 

 呉王・孫策は上機嫌のまま建業への道を進んでいくのだった。




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