第百三十二話 魏王の分析
許昌。
魏王国の王都。
かつて洛陽の混乱を乗り越えた曹操は、今や兗州、豫州、司州、雍州、そして涼州を支配する大国の王となっていた。
だが。
その表情は決して明るくなかった。
王宮の執務室。
壁一面に貼られた地図。
その前に立つ曹操は静かに天下図を見つめていた。
青い瞳が細められる。
視線の先には河北。
燕王国。
「張燕……」
静かな声だった。
その名を口にするだけで部屋の空気が変わる。
徐州を失った。
桂花を失った。
河北と呉の同盟も成立した。
現在、魏にとって最大の障害は間違いなく張燕だった。
そして。
曹操は誰よりもその男を警戒していた。
扉が開く。
「華琳様」
夏侯淵だった。
真名は秋蘭。
その後ろには夏侯惇。
真名は春蘭。
さらに郭嘉。
真名を稟。
魏を支える軍師の一人である。
「来たわね」
曹操は振り返った。
「軍議を始めるわ」
三人が頷く。
円卓へ座る。
中央には天下地図。
そして。
河北の位置には赤い印が置かれていた。
「結論から言うわ」
曹操は迷いなく言った。
「次の最大の敵は燕」
誰も異論はない。
秋蘭が頷く。
「当然でしょう」
「徐州を失った原因も張燕です」
春蘭は腕を組む。
「次に戦うなら奴らだな!」
「そうね」
曹操も同意した。
だが。
そこで稟が口を開く。
「しかし華琳様」
「何かしら」
「張燕は厄介です」
その言葉に全員が頷いた。
張燕。
黒山軍。
河北。
この数年で急速に勢力を拡大した存在。
袁紹を降伏させ。
徐州を奪い。
孫策と同盟を結び。
公孫瓚を王へ押し上げた。
戦績だけ見れば異常だった。
「確かに厄介ね」
曹操は微笑む。
「だけど」
そこで地図へ視線を落とした。
「弱点もある」
春蘭が身を乗り出す。
「本当ですか!?」
「あるわ」
断言だった。
秋蘭も興味深そうに見ている。
稟は静かに考えていた。
そして。
曹操は地図の河北へ指を置いた。
「張燕は賊よ」
全員が黙る。
「それがどうしたのですか?」
春蘭が聞く。
曹操は笑った。
「賊の戦いしか知らないの」
静かな声だった。
「……」
「……」
「……」
誰も口を挟まない。
曹操は続ける。
「奇襲」
「夜襲」
「破壊工作」
「情報戦」
「補給線攻撃」
「民心操作」
「離間工作」
次々と言葉を並べる。
「どれも見事よ」
「認めるわ」
そこに嘘はない。
張燕は優秀だった。
だからこそ危険だった。
しかし。
「正面からの戦争を知らない」
その一言だった。
秋蘭の目が細くなる。
「なるほど」
「気付いた?」
「はい」
秋蘭は頷いた。
「張燕の戦歴は全て少数側の戦い」
「その通り」
曹操は満足そうだった。
張燕は賊だ。
常に弱者だった。
だからこそ工夫した。
だからこそ策を磨いた。
だが。
「王道を知らない」
曹操は地図を叩く。
「大軍を動かす戦争」
「国家と国家の総力戦」
「正面決戦」
「長期遠征」
「広域補給」
それらは別の才能だった。
そして。
張燕には経験がない。
「確かに」
稟が呟いた。
「今まで張燕は正面決戦を避け続けています」
「ええ」
曹操は頷く。
「彼は賢いから避ける」
「自分の得意分野で戦う」
「だから勝つ」
だが。
それは裏を返せば。
「正攻法では勝てないと理解しているということ」
部屋が静まる。
春蘭も珍しく真剣だった。
「つまり」
「こちらが王道で押し潰せばいい」
曹操の瞳が輝く。
「河北は強い」
「だが国としては若い」
「魏ほど成熟していない」
「経験も浅い」
それは事実だった。
燕王国成立からまだ日が浅い。
対して魏は長年積み上げてきた基盤がある。
「兵力なら互角」
「武将も互角」
「軍師は……少し不利ね」
桂花がいる。
それは認めざるを得ない。
しかし。
それでも。
「国家としては魏が上」
曹操は断言した。
稟も同意する。
「私もそう思います」
「ならば」
春蘭が笑った。
「正面から叩き潰せばいいな!」
単純だった。
だが。
今回はそれが正しい。
秋蘭も頷く。
「張燕が最も嫌う戦いですね」
「ええ」
曹操は立ち上がる。
窓の外を見る。
遠く北。
河北の方向だった。
「張燕は恐ろしい敵よ」
その評価は本物だった。
軽視などしていない。
むしろ天下で最も危険な男だと考えている。
だが。
だからこそ見える。
欠点も。
「策士は策に頼る」
静かに言う。
「そして」
青い瞳が鋭く光った。
「策が通じない相手を最も嫌う」
春蘭が笑う。
秋蘭が頷く。
稟が静かに微笑む。
皆理解していた。
次の戦いは近い。
魏と燕。
天下最大の激突。
それは避けられない。
一方その頃。
河北では。
張燕が黒山軍の兵士たちと酒を飲みながら笑っていた。
まだ知らない。
遠く許昌で。
曹操が自分の弱点へ辿り着きつつあることを。
そして。
次なる戦いがこれまでとは全く違うものになることを。
天下は静かだった。
だがその静けさは嵐の前兆に過ぎない。
魏王・曹操。
燕王を支える張燕。
二人の英雄の激突が、少しずつ近付いていた。
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