【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第百三十五話 官渡の火蓋

第百三十五話 官渡の火蓋

 

 

 官渡。

 

 天下の命運を左右する大戦場。

 

 魏と燕。

 

 二つの大国が正面から激突する戦が、ついに始まった。

 

 両軍が対陣してから数日。

 

 しかし誰も先に動こうとはしなかった。

 

 官渡の平原には緊張だけが積み重なっていく。

 

 昼は軍旗が風に揺れ。

 

 夜は無数の篝火が闇を照らす。

 

 兵士たちは武器を抱きながら眠り、将たちは地図を広げて睨み合う。

 

 その状況を最も嫌っていたのは春蘭だった。

 

「つまらん!」

 

 本陣に怒声が響く。

 

「いつまで睨み合うつもりだ!」

 

 机を叩く。

 

 周囲の武将たちは慣れた様子だった。

 

 秋蘭がため息を吐く。

 

「姉者」

 

「何だ」

 

「戦は勢いだけでやるものではない」

 

「知っている!」

 

 知らないだろう。

 

 そう思った者は多かったが誰も口にはしなかった。

 

 稟が苦笑する。

 

「華琳様は相手を観察しているのです」

 

「観察?」

 

「ええ」

 

 稟は地図へ視線を向けた。

 

「張燕がどこで動くか」

 

「どこを狙うか」

 

「何を仕掛けるか」

 

「それを待っているのです」

 

 春蘭は腕を組んだ。

 

「面倒だな」

 

「だから勝てるんです」

 

 稟は静かに言った。

 

 その頃。

 

 燕軍本陣でも似たような空気だった。

 

 翠が退屈そうに槍を振り回している。

 

「まだかよ!」

 

「暇だ!」

 

 霞が笑う。

 

「まあ落ち着きや」

 

「落ち着けるか!」

 

 恋は肉を食べている。

 

 いつも通りだった。

 

 そして中央。

 

 地図を見つめる張燕。

 

 その隣には桂花。

 

 今や完全に河北軍の軍師となった元魏の頭脳だった。

 

「華琳様らしいですね」

 

 桂花が言う。

 

「ああ」

 

 張燕は頷く。

 

「簡単には動かない」

 

「ええ」

 

 二人とも理解していた。

 

 曹操は慎重だ。

 

 勝てると確信するまで動かない。

 

 そして。

 

 その慎重さこそが最大の強みだった。

 

 その時。

 

 白蓮が本陣へ入ってくる。

 

「時雨」

 

「どうした」

 

「兵たちが落ち着かない」

 

 当然だった。

 

 数万人が戦場で待機している。

 

 いつ戦が始まるか分からない。

 

 緊張は限界に近い。

 

「そうか」

 

 張燕は立ち上がった。

 

「少し歩くか」

 

 そして本陣を出る。

 

 燕軍の陣地。

 

 無数の兵士たち。

 

 彼らの顔には不安があった。

 

 張燕はそれを見ていた。

 

 黒山軍なら違う。

 

 賊たちは慣れている。

 

 だが正規軍は違う。

 

 王国の兵士だ。

 

 守るものがある。

 

 家族がある。

 

 恐怖もある。

 

「頭領だ」

 

「張燕様だ」

 

 兵たちが気付く。

 

 張燕は立ち止まった。

 

「怖いか?」

 

 突然の問いだった。

 

 兵たちは顔を見合わせる。

 

 そして一人が言った。

 

「……怖いです」

 

 正直だった。

 

 張燕は笑った。

 

「そうか」

 

「俺もだ」

 

 兵たちが驚く。

 

 まさか張燕がそんなことを言うとは思わなかった。

 

「戦は怖い」

 

「死ぬかもしれない」

 

「仲間を失うかもしれない」

 

 静かな声。

 

 だが兵たちは耳を傾けていた。

 

「だから」

 

 張燕は空を見る。

 

「生き残れ」

 

 それだけだった。

 

「勝つために戦え」

 

「名誉のためじゃない」

 

「死ぬためじゃない」

 

「生きるために戦え」

 

 兵たちの目が変わる。

 

 その言葉は黒山軍の哲学だった。

 

 生き延びること。

 

 それこそが勝利。

 

「俺も生きる」

 

 張燕は笑った。

 

「だからお前たちも生きろ」

 

 歓声が上がる。

 

「おおっ!」

 

「張燕様!」

 

「勝つぞ!」

 

 士気が上がっていく。

 

 その様子を白蓮は見ていた。

 

「不思議な男だな」

 

「何が」

 

「王じゃないのに王より人を動かす」

 

 張燕は苦笑した。

 

「褒めても何も出ないぞ」

 

「別に褒めてない」

 

 そう言いながら白蓮は笑っていた。

 

 そして。

 

 その日の夜。

 

 ついに動きがあった。

 

 魏軍本陣。

 

 稟が駆け込んでくる。

 

「華琳様」

 

「何かしら」

 

「燕軍が動きました」

 

 曹操の目が細くなる。

 

「内容は?」

 

「東側」

 

「補給路の偵察部隊を発見」

 

 春蘭が立ち上がった。

 

「来たか!」

 

 だが曹操は落ち着いている。

 

「本隊ではないわね」

 

「はい」

 

 稟が頷く。

 

「少数です」

 

 曹操は笑った。

 

「始まったわね」

 

「ええ」

 

 誰もが理解していた。

 

 これはただの偵察ではない。

 

 張燕が仕掛け始めたのだ。

 

 黒山軍の戦いが。

 

 正面決戦の前に。

 

 敵を削り。

 

 疲弊させ。

 

 混乱させる。

 

 いつものやり方。

 

 しかし。

 

 曹操はそれを待っていた。

 

「春蘭」

 

「おう!」

 

「追うな」

 

「なっ!?」

 

 春蘭が驚く。

 

「なぜだ!」

 

「罠だからよ」

 

 即答だった。

 

「張燕はそれを待っている」

 

「……」

 

「追撃して部隊を分断する」

 

「そして包囲」

 

「いつもの手口よ」

 

 春蘭は悔しそうに拳を握る。

 

 だが反論できない。

 

 曹操の言う通りだった。

 

「全軍」

 

 曹操が立ち上がる。

 

「予定通り」

 

「守りを固める」

 

「張燕が何をしても動じない」

 

「相手の土俵には乗らない」

 

「はい」

 

 稟が頷く。

 

 秋蘭も頷く。

 

 魏軍は静かだった。

 

 揺るがない。

 

 それが曹操軍の強さだった。

 

 一方。

 

 燕軍本陣。

 

 報告を受けた張燕は眉をひそめた。

 

「追ってこないか」

 

「はい」

 

 桂花が答える。

 

「完全に見抜かれています」

 

「だろうな」

 

 張燕は苦笑した。

 

 相手は曹操。

 

 簡単には引っ掛からない。

 

「面倒だ」

 

「非常に」

 

 二人とも同意見だった。

 

 だからこそ。

 

 官渡は今までの戦と違う。

 

 奇襲が通じない。

 

 誘いに乗らない。

 

 焦らない。

 

 それが曹操だった。

 

 夜風が吹く。

 

 遠くで魏軍の篝火が揺れている。

 

 まるで巨大な山のようだった。

 

 張燕はそれを見ながら静かに呟く。

 

「さて」

 

 その目が鋭くなる。

 

「本当に天下一面倒な相手だな」

 

 官渡の戦いは始まった。

 

 だがまだ序章に過ぎない。

 

 曹操と張燕。

 

 天下最高峰の知略がぶつかる本当の戦いは、これからだった。




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