【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

135 / 139
第百三十六話 動かぬ王、動く賊

第百三十六話 動かぬ王、動く賊

 

 

 官渡の戦いが始まってから半月が過ぎた。

 

 しかし戦況は大きく動いていない。

 

 両軍は巨大な陣営を築き、互いを睨み続けていた。

 

 兵数だけなら十万近い。

 

 これほどの軍勢が正面から向かい合っているにもかかわらず、決戦は起きていなかった。

 

 その理由は単純である。

 

 双方とも相手を知りすぎていた。

 

 曹操は張燕を知っている。

 

 張燕は曹操を知っている。

 

 だからこそ迂闊に動けない。

 

 そんな膠着状態の中で最初に痺れを切らしたのは燕軍だった。

 

「暇だ!」

 

 翠が叫んだ。

 

 本陣の外で槍を振り回している。

 

「戦わせろ!」

 

「落ち着け」

 

 霞が呆れる。

 

「まだ始まっとらん」

 

「だからだよ!」

 

 翠は不満そうだった。

 

 恋は相変わらず肉を食べている。

 

 まるで遠足である。

 

 だが本陣の中央だけは重苦しい空気に包まれていた。

 

 白蓮。

 

 時雨。

 

 桂花。

 

 星。

 

 主要な将たちが地図を囲んでいる。

 

「動かないな」

 

 白蓮が言った。

 

「ああ」

 

 張燕も頷く。

 

 予想以上だった。

 

 曹操は徹底している。

 

 補給線を守る。

 

 陣地を強化する。

 

 夜襲にも動じない。

 

 小競り合いにも乗らない。

 

 まるで巨大な岩のようだった。

 

「華琳様らしいですね」

 

 桂花が少し誇らしそうに言う。

 

「味方じゃないんだが」

 

「元主君ですから」

 

 それは仕方ない。

 

 張燕も苦笑した。

 

 だが。

 

 その桂花ですら表情は険しい。

 

 それだけ曹操軍は厄介だった。

 

「時雨」

 

 星が口を開く。

 

「このままでは兵たちの士気が下がる」

 

「だろうな」

 

 戦うために集められた兵士たちである。

 

 何もしない日々が続けば不安になる。

 

 特に河北軍は寄せ集めだ。

 

 幽州。

 

 并州。

 

 冀州。

 

 青州。

 

 様々な勢力が混じっている。

 

 長期戦になれば統率にも影響が出る。

 

 張燕は腕を組んだ。

 

「なら」

 

 その目が細くなる。

 

「少し派手にやるか」

 

 その言葉に桂花が眉をひそめた。

 

「何を考えているんですか」

 

「別に」

 

 張燕は笑う。

 

「ちょっとした嫌がらせだ」

 

 その笑顔を見た瞬間。

 

 星と桂花は同時にため息を吐いた。

 

 嫌な予感しかしなかった。

 

 その日の夜。

 

 魏軍陣営の西側。

 

 静かな夜だった。

 

 見張りの兵士たちが巡回している。

 

 特に異常はない。

 

 そう思われた。

 

 突然。

 

 遠くの森から無数の音が響いた。

 

 太鼓だった。

 

 ドンドンドンドン!

 

 夜空を揺らす轟音。

 

「敵襲!」

 

「敵襲だ!」

 

 魏軍が一斉に騒ぎ始める。

 

 兵士たちは飛び起きる。

 

 武器を掴む。

 

 弓兵が配置につく。

 

 だが。

 

 敵は現れない。

 

「どういうことだ?」

 

 春蘭が大剣を持って飛び出してくる。

 

「敵影なし!」

 

「はぁ!?」

 

 報告を受けた春蘭が怒鳴る。

 

 その頃。

 

 本陣では曹操が静かに紅茶を飲んでいた。

 

「華琳様」

 

 秋蘭が入ってくる。

 

「敵襲ではありません」

 

「でしょうね」

 

 曹操は落ち着いていた。

 

「張燕の嫌がらせよ」

 

 予想通りだった。

 

 そして翌日。

 

 今度は東側で狼煙が上がる。

 

 全軍が緊張する。

 

 しかし何も起きない。

 

 翌々日。

 

 南側で馬の群れが放たれる。

 

 兵士たちは敵襲と勘違いする。

 

 だがただの馬だった。

 

 さらにその翌日。

 

 夜中に突然、黒山軍が大声で歌い始めた。

 

 魏軍の兵士たちは眠れない。

 

 春蘭は激怒した。

 

「奴らは馬鹿なのか!」

 

「違います」

 

 稟が答える。

 

「頭が良すぎるんです」

 

 兵士の疲労。

 

 不安。

 

 緊張。

 

 それらを積み重ねている。

 

 直接戦わずに。

 

 少しずつ。

 

 少しずつ。

 

 削っているのだ。

 

「本当に嫌な奴だな」

 

 春蘭が顔をしかめる。

 

「ええ」

 

 秋蘭も同意した。

 

「敵に回したくない人物です」

 

 一方。

 

 燕軍本陣では。

 

 翠が大笑いしていた。

 

「なんだそれ!」

 

「面白い!」

 

 霞も笑っている。

 

「夜中に歌うだけで敵が起きるんやからなぁ」

 

「黒山流だ」

 

 張燕が平然と言う。

 

 白蓮は頭を抱えていた。

 

「王国軍の戦いじゃないだろう……」

 

「元々賊だしな」

 

 開き直っていた。

 

 しかし。

 

 そんな中。

 

 桂花だけは浮かない顔をしていた。

 

「時雨様」

 

「ん?」

 

「これでは勝てません」

 

 その一言で場が静まる。

 

「削ることはできます」

 

「嫌がらせもできます」

 

「ですが華琳様は耐えます」

 

 張燕も笑みを消した。

 

 その通りだった。

 

 普通の将なら怒る。

 

 焦る。

 

 追撃する。

 

 だが曹操は違う。

 

 全部理解している。

 

 だから意味が薄い。

 

「分かってる」

 

 張燕は静かに言った。

 

 彼自身が一番理解していた。

 

 今までの敵ではない。

 

 袁紹でもない。

 

 袁術でもない。

 

 徐州の将たちでもない。

 

 曹操だ。

 

 天下最強の王。

 

「だから」

 

 張燕は地図を見る。

 

「次を考える」

 

 官渡。

 

 巨大な戦場。

 

 このままでは埒が明かない。

 

 そして。

 

 同じことを考えている人物がもう一人いた。

 

 魏軍本陣。

 

 夜。

 

 誰もいない部屋で曹操は地図を見つめていた。

 

「そろそろね」

 

 静かな声だった。

 

 青い瞳が鋭く光る。

 

 張燕が仕掛ける。

 

 ならば自分も仕掛ける。

 

 官渡の均衡は長く続かない。

 

 天下を賭けた知略戦は。

 

 いよいよ次の段階へ進もうとしていた。

 

 そしてその時。

 

 誰もまだ知らない。

 

 曹操が張燕の想像以上に大胆な一手を準備していることを。




感想、評価、お気に入りよろしくお願い致します!

ヒロインアンケート

  • 雪蓮
  • 華琳
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。