第百三十七話 魏王の一手
官渡。
魏と燕。
天下を二分する大戦は、依然として膠着していた。
しかし、その均衡は少しずつ崩れ始めていた。
先に動いたのは曹操だった。
魏軍本陣。
深夜。
大半の将兵が眠る中、王の天幕だけには明かりが灯っていた。
机の上には地図。
補給路。
兵站表。
各地から届いた報告書。
そして曹操は静かに笑っていた。
「華琳様」
稟が入ってくる。
「準備が整いました」
「そう」
曹操は頷いた。
「ようやく始められるわね」
その声には自信があった。
秋蘭もいる。
春蘭もいる。
三人とも曹操の考えを理解していた。
「本当にやるのですか?」
春蘭が聞く。
「当然よ」
曹操は迷わない。
「張燕は賢い」
「だからこそ」
地図を指で叩く。
「考えすぎる」
その言葉に稟が微笑んだ。
張燕は策士だ。
優秀な策士。
だから常に敵の裏を読む。
裏の裏を読む。
さらにその裏を読む。
そして。
時にそれが弱点になる。
「張燕」
曹操は呟いた。
「あなたは奇襲を警戒している」
「罠を警戒している」
「補給路への攻撃も考えている」
そこまでは正しい。
だが。
「だから正面を見なくなる」
その一言だった。
翌朝。
魏軍全体が動き出した。
燕軍の見張り台。
「報告!」
伝令が駆け込む。
「魏軍が動きました!」
張燕が顔を上げる。
「どこだ」
「中央です!」
本陣が騒がしくなる。
白蓮が立ち上がった。
「正面?」
「はい!」
桂花も眉をひそめる。
「何を考えているんですか華琳様……」
そして。
高台へ登った張燕は遠くを見た。
そこには。
無数の魏軍。
隊列を整え。
堂々と進軍してくる大軍勢。
奇襲ではない。
伏兵でもない。
正々堂々。
まさに王道の進軍だった。
「……」
張燕は黙る。
星も横に立った。
「時雨」
「ああ」
「来たな」
官渡平原。
魏軍は巨大な陣形を形成していた。
中央。
右翼。
左翼。
整然と並ぶ兵士たち。
まるで巨大な壁である。
そして先頭には。
魏王曹操。
黄金の髪が風になびく。
青い瞳が北を見据えていた。
「全軍前進」
静かな命令。
だが。
数万の兵が動く。
地面が震える。
まるで山が歩いているようだった。
燕軍本陣。
「これは……」
白蓮が息を呑む。
圧力。
それ以外に言葉がない。
今までの敵とは違う。
魏という国家そのものが押し寄せている。
そんな感覚だった。
翠も珍しく真面目な顔になる。
「すげぇな」
「強そうだ」
恋だけは相変わらずだった。
「いっぱい居る」
呂布らしい感想だった。
霞は苦笑する。
「恋らしいなぁ」
だが。
誰も笑えない。
敵は強大だった。
張燕は黙ったまま戦場を見る。
そして。
ゆっくりと口を開いた。
「なるほど」
桂花が見る。
「分かりましたか」
「ああ」
張燕は笑った。
少しだけ。
苦々しく。
「曹操は俺を試してる」
その言葉に星が頷く。
「正面決戦」
「そうだ」
張燕は地図を閉じた。
「奇襲もない」
「策もない」
「ただ押し潰す」
それが曹操の狙い。
そして。
それこそが張燕が最も苦手な戦いだった。
賊として生きてきた男。
少数で大軍に挑んできた男。
正面から国家同士の総力戦を経験していない男。
曹操はそこを突いてきた。
「嫌らしいな」
張燕は笑う。
「本当に」
だが。
その瞳はむしろ楽しそうだった。
久しぶりだった。
ここまで自分を追い詰める敵は。
袁紹でもない。
袁術でもない。
劉備でもない。
孫策でもない。
曹操だけだった。
その頃。
魏軍中央。
曹操もまた遠くの燕軍本陣を見ていた。
「どうかしら」
稟が尋ねる。
「張燕は」
曹操は微笑んだ。
「喜んでいるわ」
「え?」
春蘭が首を傾げる。
「普通は困るだろう」
「ええ」
曹操は頷く。
「普通ならね」
しかし張燕は違う。
困難な状況ほど燃える。
不利な状況ほど知恵を絞る。
だからこそ危険。
だからこそ面白い。
「でも」
曹操の目が鋭くなる。
「それでも勝つのは私よ」
その言葉には絶対的な自信があった。
王として。
覇者として。
天下を狙う者として。
譲れないものがある。
そして。
その日の夕刻。
ついに両軍の前線部隊が接触する。
無数の槍。
無数の盾。
無数の旗。
官渡の平原に緊張が走る。
まだ本格的な決戦ではない。
だが。
誰もが理解していた。
近い。
決定的な激突が。
張燕は高台から戦場を見下ろしていた。
風が吹く。
遠くには曹操軍。
そして背後には河北の仲間たち。
白蓮。
星。
恋。
霞。
翠。
桂花。
守るべき者たち。
失いたくない者たち。
「さて」
張燕は静かに呟く。
「天下最強の王様か」
その口元に浮かぶのは黒山賊時代と同じ笑み。
獲物を見つけた狼のような笑みだった。
官渡の戦いは新たな局面へ入る。
そして次の一手が、この天下の行方を大きく左右することになるのだった。
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