第百三十八話 黒山の戦い
官渡。
天下の命運を賭けた大戦場。
魏軍と燕軍はついに前線で接触し、小規模な戦闘が各地で始まっていた。
だが、まだ決戦ではない。
それは互いに相手の力を測るための探り合いだった。
そして張燕は、その探り合いの中で一つの結論に達していた。
夜。
燕軍本陣。
将たちが集められていた。
白蓮。
星。
恋。
霞。
翠。
桂花。
河北の主力が勢揃いしている。
地図の前に立つ張燕は静かに口を開いた。
「正面からやれば負ける」
いきなりだった。
だが誰も驚かなかった。
むしろ当然だと思った。
白蓮が腕を組む。
「随分はっきり言うな」
「事実だからな」
張燕は肩を竦めた。
「兵力は互角」
「武将も互角」
「軍師は……まあ桂花がいるから少し有利かもしれない」
「少しどころじゃありません」
桂花が胸を張る。
「私は天才です」
「そうだったな」
「そうです」
相変わらずだった。
少しだけ場が和む。
だが張燕の表情は真剣だった。
「問題は曹操だ」
その一言で空気が引き締まる。
全員が黙る。
張燕は地図を指差した。
「曹操は俺を理解している」
「だから俺の嫌がる戦いをしてくる」
その通りだった。
補給線は守る。
誘いには乗らない。
焦らない。
正面から圧力をかけ続ける。
実に嫌らしい。
「ならどうする?」
白蓮が尋ねた。
張燕は笑った。
「簡単だ」
そして。
地図の一点を叩いた。
「俺らしい戦いをする」
星の口元が少しだけ上がる。
「なるほど」
「分かったか?」
「ああ」
星は頷いた。
「正面ではなく裏を狙うんだな」
「そういうことだ」
白蓮が頭を抱える。
「またか……」
だがそれこそが張燕だった。
賊。
黒山軍。
正面から殴り合うよりも、敵の急所を狙う。
それが本来の戦い方。
「翠」
「おう!」
「恋」
「ん」
二人が前に出る。
「しばらく暴れるぞ」
その言葉に翠が笑った。
「待ってました!」
恋も小さく頷く。
「頑張る」
霞が苦笑した。
「敵さんが可哀想になってきたわ」
翌日。
官渡前線。
魏軍左翼。
朝靄が立ち込める中、警戒に当たっていた兵士が異変に気付いた。
「敵襲!」
叫び声が響く。
その瞬間だった。
馬の群れが飛び出す。
先頭。
茶色のポニーテール。
十文字槍。
馬超。
「突撃だぁぁぁぁぁ!!」
豪快な叫び。
翠だった。
その後ろから数百騎の騎兵が突っ込む。
魏軍が慌てて迎撃する。
だが。
「遅い!」
翠の槍が兵士を吹き飛ばす。
騎兵隊が陣を切り裂く。
混乱が広がる。
しかし。
そこで秋蘭が現れた。
「馬超か」
冷静な声。
弓兵隊が整列する。
「放て」
無数の矢が空を覆う。
「ちっ!」
翠が舌打ちした。
「引くぞ!」
黒山軍の騎兵は即座に撤退する。
深追いできない。
追えば罠。
それは魏軍も理解していた。
秋蘭は馬上から敵を見送る。
「やはり来たか」
予想通りだった。
一方。
別の場所。
今度は魏軍右翼。
静かな森。
その中を歩いていた部隊が突然足を止める。
「何だ?」
地面。
そこに張られた縄。
次の瞬間。
落とし穴が開いた。
「うわああああ!」
兵士たちが落ちる。
さらに。
上から丸太。
石。
矢。
黒山軍の十八番だった。
「敵襲!」
森の奥から笑い声が響く。
だが姿は見えない。
攻撃だけして消える。
まるで幽霊だった。
その報告が次々と魏軍本陣へ届く。
春蘭が怒鳴った。
「ちまちましやがって!」
「落ち着け姉者」
秋蘭がため息を吐く。
「これが張燕だ」
曹操は報告書を読んでいた。
表情は変わらない。
怒りも焦りもない。
むしろ。
少しだけ笑っていた。
「やっと本気を出してきたわね」
その頃。
燕軍本陣。
張燕は高台から戦場を眺めていた。
その隣には星。
水色の髪が風になびいている。
「楽しそうだな」
星が言う。
いつもの調子だった。
張燕は笑う。
「まあな」
「賊らしい顔をしている」
「褒め言葉か?」
「もちろん」
星も少し笑った。
しばらく二人は戦場を見ていた。
遠くでは煙が上がっている。
翠が暴れているのだろう。
別の場所では黒山軍がまた何か仕掛けている。
「時雨」
「あ?」
「負けると思うか」
突然の問いだった。
張燕は少し考える。
そして。
「分からん」
正直に答えた。
「今までで一番強い相手だからな」
袁紹。
袁術。
劉備。
孫策。
どれも強敵だった。
だが曹操は違う。
一段上にいる。
「怖いか」
星が聞く。
「少しな」
張燕は笑った。
「だから面白い」
その答えに星も笑う。
「そうか」
そして小さく呟いた。
「やはり私はお前が好きだな」
「ん?」
「独り言だ」
張燕は首を傾げた。
だが星はそれ以上何も言わない。
ただ遠くの戦場を見る。
その横顔を見ながら張燕は不思議そうな顔をした。
だがすぐに視線を戻す。
戦は続いている。
官渡。
巨大な戦場。
正面では王と王が睨み合い。
裏では黒山の狼が牙を剥く。
そして曹操もまた静かに次の一手を準備していた。
官渡の戦いは、さらに激しさを増していくのであった。
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