【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第百三十九話 魏王の罠

第百三十九話 魏王の罠

 

 

 官渡の戦いは新たな局面へ入っていた。

 

 張燕率いる黒山軍は本来の戦い方を取り戻し始めていた。

 

 夜襲。

 

 奇襲。

 

 補給路への嫌がらせ。

 

 落とし穴。

 

 偽情報。

 

 森に潜み敵を削る黒山流の戦術。

 

 それによって魏軍も少しずつ疲弊していた。

 

 しかし。

 

 張燕は一つだけ違和感を覚えていた。

 

 夜。

 

 燕軍本陣。

 

 張燕は一人で地図を見つめていた。

 

 机の上には各地からの報告書が並んでいる。

 

 魏軍左翼への襲撃。

 

 補給隊への妨害。

 

 偵察隊との小競り合い。

 

 どれも成功していた。

 

 普通なら喜ぶところだ。

 

 だが。

 

「妙だな」

 

 小さく呟く。

 

 その時だった。

 

 天幕の入口が開く。

 

「まだ起きていたのか」

 

 星だった。

 

 水色の髪を揺らしながら入ってくる。

 

「お前こそ」

 

「眠れない」

 

 そう言いながら張燕の隣に座る。

 

 自然な動作だった。

 

 もう長い付き合いである。

 

「何を見ている?」

 

 星が地図を見る。

 

 張燕は報告書を指差した。

 

「成功しすぎてる」

 

「成功しすぎている?」

 

「ああ」

 

 星は少し考えた。

 

 そしてすぐに理解した。

 

「なるほど」

 

「だろ?」

 

 二人とも同じ結論に達した。

 

 相手は曹操である。

 

 あまりにも上手くいきすぎていた。

 

 黒山軍の襲撃が。

 

 奇襲が。

 

 嫌がらせが。

 

 全部成功している。

 

 それが逆に不自然だった。

 

「わざとだな」

 

 星が言う。

 

「多分な」

 

 張燕も頷く。

 

 曹操は無能ではない。

 

 夏侯淵もいる。

 

 郭嘉もいる。

 

 そんな相手がこれほど簡単に削られるはずがない。

 

「なら狙いは?」

 

 星が尋ねる。

 

 張燕は腕を組んだ。

 

「俺だろうな」

 

 その答えに星は苦笑した。

 

「だと思った」

 

 張燕を誘い出す。

 

 もしくは。

 

 黒山軍主力をどこかへ引き寄せる。

 

 そういう類の罠だろう。

 

「厄介だな」

 

「相手が曹操だからな」

 

 二人はしばらく沈黙した。

 

 外では夜風が吹いている。

 

 遠くで見張りの声が聞こえた。

 

 官渡の夜は静かだった。

 

 だがその静けさの下では、天下の命運が動いている。

 

 その頃。

 

 魏軍本陣。

 

 曹操は郭嘉と向かい合っていた。

 

「どう思う?」

 

 曹操が聞く。

 

 郭嘉――稟は微笑んだ。

 

「気付いていると思います」

 

「そう」

 

「張燕ですから」

 

 曹操は紅茶を口にする。

 

 予想通りだった。

 

 張燕は馬鹿ではない。

 

 むしろ異常なほど勘が鋭い。

 

 だから簡単な罠にはかからない。

 

「ですが」

 

 稟が続ける。

 

「気付いたとしても動かざるを得ません」

 

「ええ」

 

 曹操も頷く。

 

 そこが今回の肝だった。

 

 罠と分かっていても動かざるを得ない。

 

 それが最も恐ろしい策。

 

「準備は?」

 

「終わっています」

 

「よろしい」

 

 曹操は笑った。

 

 青い瞳が静かに光る。

 

「なら始めましょう」

 

 翌日。

 

 官渡の東側。

 

 小さな砦があった。

 

 魏軍の前線補給拠点である。

 

 そこへ黒山軍の偵察隊が近付いた。

 

 そして。

 

「何だあれ?」

 

 偵察兵が目を丸くする。

 

 大量の兵糧。

 

 大量の武具。

 

 補給物資。

 

 まるで無防備に置かれている。

 

 守備兵も少ない。

 

 誰が見ても美味しい獲物だった。

 

 報告はすぐ張燕の元へ届く。

 

 本陣。

 

 張燕は話を聞き終わると盛大にため息を吐いた。

 

「分かりやすすぎるだろ」

 

 白蓮も呆れている。

 

「確かにな」

 

 翠は首を傾げた。

 

「でも兵糧なんだろ?」

 

「そうだな」

 

「奪えばいいじゃん」

 

 単純である。

 

 実に翠らしい。

 

 だが。

 

 桂花は即座に否定した。

 

「罠です」

 

「だよな」

 

 張燕も同意する。

 

 むしろ罠以外ありえない。

 

 しかし。

 

 問題は別だった。

 

「時雨」

 

 白蓮が口を開く。

 

「もし本当に兵糧だったら?」

 

「……」

 

 張燕が黙る。

 

 そこだった。

 

 もし本物なら。

 

 奪えば魏軍に大打撃を与えられる。

 

 見逃せば機会損失。

 

 だが手を出せば罠。

 

 絶妙だった。

 

「嫌らしいな」

 

 張燕は笑う。

 

「本当に嫌らしい」

 

 曹操らしい策だった。

 

 正面から戦いながら。

 

 同時に頭脳戦も仕掛けてくる。

 

 だから強い。

 

「どうする?」

 

 星が聞く。

 

 張燕は少し考えた。

 

 そして笑った。

 

 黒山賊時代と同じ顔だった。

 

「決まってる」

 

「?」

 

「罠なら利用する」

 

 全員が張燕を見る。

 

 張燕の目は輝いていた。

 

 危険な時ほど。

 

 不利な時ほど。

 

 この男は楽しそうになる。

 

「曹操が俺を釣りたいなら」

 

 張燕は立ち上がる。

 

「釣られてやる」

 

「ただし」

 

 不敵に笑った。

 

「釣り針ごと食い千切ってな」

 

 その言葉に。

 

 星は思わず笑う。

 

 白蓮は頭を抱える。

 

 桂花は嫌な予感しかしなかった。

 

 翠は面白そうに笑う。

 

 恋はよく分かっていない。

 

 だが。

 

 全員が理解していた。

 

 また張燕が何かとんでもないことを考えている。

 

 そしてその頃。

 

 遠く魏軍本陣では。

 

 曹操もまた微笑んでいた。

 

「さあ張燕」

 

 青い瞳が官渡の北を見据える。

 

「あなたはどう動くのかしら」

 

 天下を賭けた知略戦。

 

 その次の一手が、ついに打たれようとしていた。




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