第百四十話 罠の中へ
官渡。
天下の命運を賭けた戦場。
魏王曹操と燕王公孫瓚。
そして両者の背後で知略を巡らせる張燕と曹操。
戦はすでに剣や槍だけではなく、頭脳と胆力を競う勝負へと変わっていた。
そして今。
曹操が仕掛けた巨大な罠が、張燕の目の前にぶら下がっている。
魏軍東部補給拠点。
大量の兵糧。
大量の軍需物資。
明らかに不自然な守備。
誰が見ても罠だった。
だが同時に。
誰が見ても魅力的な獲物でもあった。
燕軍本陣。
張燕は地図の前で腕を組んでいた。
周囲には白蓮、星、桂花、霞、翠、恋がいる。
「さて」
張燕が口を開く。
「改めて聞こう」
全員を見る。
「どう思う?」
最初に答えたのは桂花だった。
「罠です」
即答。
「百パーセントです」
「だろうな」
「華琳様がこんな隙を見せるわけありません」
元主君への信頼が凄まじい。
だが張燕も同意だった。
「星は?」
「あからさまだな」
星も頷く。
「むしろ罠だと気付かせたいように見える」
「だな」
そこが気味悪かった。
罠を隠していない。
むしろ見せている。
それが曹操らしかった。
「白蓮は?」
「嫌な予感しかしない」
「正解」
張燕は笑う。
全員が同じ意見だった。
罠である。
間違いない。
だが。
問題はそこではない。
「翠」
「おう」
「お前ならどうする」
翠は迷わなかった。
「奪う」
即答だった。
「だって兵糧だろ?」
「そうだな」
「だったら取る」
単純だった。
だが。
戦場ではその単純さが時に正しい。
兵糧は軍の命だ。
奪えば敵を弱らせられる。
放置すれば機会を逃す。
翠は武人だった。
だから答えも真っ直ぐだった。
張燕は笑う。
「恋は?」
「ん」
恋は少し考える。
「時雨が決める」
「おう」
実に恋らしい。
霞は肩を竦めた。
「うちは反対や」
「理由は?」
「時雨が絶対なんか企んでる顔しとるからや」
全員が納得した。
張燕がその顔をすると大体ろくなことにならない。
「失礼だな」
「今さらやろ」
霞が笑う。
その時だった。
張燕が地図の一点を指差した。
「ここだ」
補給拠点。
その周囲。
山。
森。
河川。
全てを書き込んである。
「曹操は俺を誘っている」
「うん」
「補給拠点を襲わせるためにな」
「そうだな」
「なら」
張燕の目が細くなる。
「襲う」
白蓮が頭を抱えた。
「やっぱりか」
桂花もため息を吐く。
「予想通りです」
「ただし」
張燕は笑った。
「俺は行かない」
その場が静まり返る。
「……は?」
翠が間抜けな声を出す。
「どういうことだ?」
「簡単だ」
張燕は地図を叩いた。
「曹操は俺を待ってる」
「だから俺は行かない」
「代わりに?」
星が聞く。
「別の場所を襲う」
全員の目が変わる。
ようやく理解した。
罠にかかる振りをする。
だが本命は別。
それが張燕だった。
「陽動か」
星が笑う。
「そういうこと」
張燕も笑った。
黒山軍の戦い。
正面から見えるものは全て偽物。
本命は別の場所にある。
「敵が補給拠点に集中した瞬間」
地図をなぞる。
「こっちを叩く」
指先が止まった。
そこは。
魏軍前線基地。
補給拠点より遥かに重要な場所だった。
桂花の目が見開かれる。
「なるほど……」
「華琳様は補給拠点を餌にしている」
「そう」
「なら本命を奪えばいい」
静寂。
やがて。
星が笑った。
「やはりお前は賊だな」
「褒め言葉だ」
「もちろんだ」
二人は笑う。
白蓮は呆れていた。
「本当に王国軍の将なのか?」
「元々黒山賊だしな」
否定しなかった。
その頃。
魏軍本陣。
曹操も地図を見ていた。
「そろそろかしら」
稟が頷く。
「燕軍は動くでしょう」
「ええ」
曹操は微笑む。
張燕が来る。
そう確信していた。
あの男なら兵糧を見逃さない。
だから。
待つ。
ただ待つ。
そして。
翌日の深夜。
魏軍東部補給拠点。
見張りの兵士が叫んだ。
「敵襲!」
松明が揺れる。
黒山軍が現れた。
数千。
いや一万近い。
凄まじい勢いで突撃してくる。
兵士たちが慌てる。
伝令が飛ぶ。
「燕軍襲来!」
「補給拠点が襲われています!」
その報告が魏軍本陣へ届く。
春蘭が立ち上がる。
「来た!」
だが。
曹操は静かだった。
「ええ」
青い瞳が細くなる。
「ようやく来たわね」
しかし。
その直後だった。
別の伝令が転がるように飛び込んでくる。
「ほ、報告!」
「何?」
秋蘭が聞く。
兵士は息を切らしながら叫んだ。
「西部前線基地が襲撃されました!」
空気が凍った。
「何?」
春蘭が目を見開く。
「西だと!?」
ありえない。
補給拠点が本命ではない。
では。
あちらは囮だったのか。
その瞬間。
曹操の口元がゆっくりと吊り上がった。
怒りではない。
驚きでもない。
喜びだった。
「そう」
青い瞳が夜の闇に輝く。
「やっぱりあなたね、張燕」
予想を超えてきた。
だから面白い。
だから戦いたい。
天下最強の王は笑う。
一方。
西部前線基地へ向かう黒山軍の先頭では。
張燕もまた笑っていた。
「さて」
夜風が吹く。
黒山の狼が牙を剥く。
「王様相手に悪さをする時間だ」
こうして官渡の戦いはさらに激化していく。
曹操と張燕。
互いに相手の裏を読み続ける終わりなき知略戦。
その勝負は、まだ決着の気配すら見せていなかった。
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