【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第百四十一話 欲する者

第百四十一話 欲する者

 

 

 官渡。

 

 天下の覇を賭けた戦場。

 

 魏と燕の激突は、もはや単なる国同士の争いではなかった。

 

 それは二人の英雄の戦いだった。

 

 魏王曹操。

 

 そして黒山の狼、張燕。

 

 西部前線基地襲撃の報告を受けた魏軍本陣は、一時騒然となっていた。

 

 補給拠点を囮にし、本命を別に置く。

 

 それは張燕らしい発想だった。

 

 普通の将にはできない。

 

 できたとしても実行する度胸がない。

 

 だが張燕は違う。

 

 危険と分かっていて飛び込む。

 

 そして敵の予想を一歩だけ超える。

 

 それが厄介だった。

 

 春蘭は怒っていた。

 

「華琳様!」

 

「追撃しましょう!」

 

「今ならまだ間に合います!」

 

 だが曹操は落ち着いていた。

 

 椅子に腰掛けたまま地図を眺めている。

 

 青い瞳には怒りの色はない。

 

 むしろ楽しそうですらあった。

 

「駄目よ」

 

「なぜです!」

 

「張燕が待っているから」

 

 春蘭は悔しそうに歯を食いしばる。

 

 秋蘭が冷静に続けた。

 

「姉者」

 

「追えば敵の思う壺だ」

 

「ぐっ……」

 

 理解はしている。

 

 だからこそ腹立たしい。

 

 張燕という男は戦場で好き勝手やっているように見えて、その実よく考えている。

 

 だから捕まらない。

 

 だから厄介なのだ。

 

 稟は報告書を読みながら苦笑していた。

 

「また兵糧庫が焼かれています」

 

「被害は?」

 

「前線基地の備蓄が三割ほど」

 

「安いわね」

 

 曹操は平然と言った。

 

 被害は確かにある。

 

 しかし致命傷ではない。

 

 むしろ。

 

「張燕は慎重ね」

 

 そう呟いた。

 

 稟が目を細める。

 

「慎重?」

 

「ええ」

 

 曹操は笑った。

 

「本気ならもっと深く来る」

 

「……確かに」

 

 稟も納得した。

 

 張燕は決して無謀ではない。

 

 勝てる場所で戦う。

 

 危険だと思えばすぐ引く。

 

 それが黒山賊の流儀だ。

 

 だから生き残ってきた。

 

 だから天下に名を轟かせている。

 

 そして。

 

 だからこそ曹操は興味を抱いていた。

 

 皆が去った後。

 

 本陣には曹操と稟だけが残っていた。

 

 静かな夜だった。

 

 外では兵士たちの見張りの声が聞こえる。

 

 稟はふと尋ねた。

 

「華琳様」

 

「何かしら」

 

「随分と張燕を評価しておられますね」

 

 曹操は少しだけ笑った。

 

 その笑みは戦場で見せる覇王の顔ではない。

 

 一人の人物を語る時の顔だった。

 

「当然でしょう」

 

「理由を聞いても?」

 

「簡単よ」

 

 曹操は立ち上がった。

 

 そして天幕の外を見る。

 

 遠く。

 

 燕軍の篝火が無数に見えていた。

 

「あの男は面白い」

 

 静かな声だった。

 

「面白い?」

 

「ええ」

 

 曹操は頷く。

 

「王になりたいわけじゃない」

 

「天下が欲しいわけでもない」

 

「名誉にも興味が薄い」

 

「なのに」

 

 青い瞳が細くなる。

 

「誰よりも戦が上手い」

 

 稟は黙って聞いていた。

 

 曹操は続ける。

 

「人を惹きつける」

 

「将たちに慕われる」

 

「民にも好かれる」

 

「敵ですら魅了する」

 

 そこまで言って笑う。

 

「腹立たしいほどね」

 

 稟も苦笑した。

 

 確かにそうだった。

 

 普通なら。

 

 黒山賊など賊で終わる。

 

 だが張燕は違う。

 

 趙雲。

 

 呂布。

 

 張遼。

 

 馬超。

 

 荀彧。

 

 そうそうたる人材が集まっている。

 

 しかも忠誠心が高い。

 

 それは張燕自身の魅力だった。

 

「華琳様」

 

「何?」

 

「まさか」

 

 稟は笑った。

 

「欲しくなりましたか?」

 

 その問いに。

 

 曹操は迷わなかった。

 

「ええ」

 

 即答だった。

 

 稟が少し驚く。

 

 だが曹操は真剣だった。

 

「欲しいわ」

 

 青い瞳が夜空を見上げる。

 

「春蘭も優秀」

 

「秋蘭も優秀」

 

「稟も桂花も優秀」

 

「でも」

 

 小さく笑う。

 

「張燕は別格よ」

 

 それは最大級の評価だった。

 

 天下の英雄である曹操が。

 

 心から認めている。

 

「私の配下になれば」

 

 曹操は呟く。

 

「天下統一はもっと早いでしょうね」

 

 稟が吹き出した。

 

「それは本人が嫌がるでしょう」

 

「分かっているわ」

 

 曹操も笑う。

 

 分かっている。

 

 張燕は誰かの下につく男ではない。

 

 ましてや今さら。

 

 だが。

 

 それでも欲しかった。

 

 敵として殺すには惜しい。

 

 失うには惜しい。

 

 この男が味方なら。

 

 どれほど心強いか。

 

 考えずにはいられなかった。

 

 一方その頃。

 

 燕軍本陣。

 

 張燕は盛大なくしゃみをした。

 

「へっくし!」

 

 星が怪訝そうな顔をする。

 

「風邪か?」

 

「いや」

 

 張燕は鼻を擦る。

 

「誰かが変な噂してる」

 

 白蓮が笑う。

 

「敵じゃないのか?」

 

「かもな」

 

 翠は大笑いしていた。

 

「絶対曹操だろ!」

 

「それは嫌だな」

 

 張燕は本気で嫌そうな顔をした。

 

 周囲が笑う。

 

 そんな賑やかな空気の中。

 

 星だけは静かに張燕を見ていた。

 

 官渡が始まってから。

 

 時雨はずっと楽しそうだった。

 

 強敵と戦えることが嬉しいのだろう。

 

 だが。

 

 星は知っている。

 

 この戦いは今までとは違う。

 

 相手は曹操。

 

 天下最強の覇王。

 

 そして。

 

 その曹操もまた張燕を強く意識している。

 

 それを星は本能的に感じていた。

 

「時雨」

 

「ん?」

 

「油断するなよ」

 

 張燕は笑う。

 

「分かってる」

 

「曹操は強い」

 

「ああ」

 

「今までで一番な」

 

 その目に浮かぶのは獲物を見つけた狼の光。

 

 そして同じ頃。

 

 遠く離れた魏軍本陣で。

 

 曹操もまた夜空を見上げていた。

 

「張燕」

 

 その名を口にする。

 

 敵。

 

 障害。

 

 倒すべき相手。

 

 だがそれだけではない。

 

 心のどこかで。

 

 曹操は張燕という男を誰よりも高く評価していた。

 

「いつか」

 

 小さく笑う。

 

「本当に私の下に来ないかしら」

 

 もちろん有り得ない。

 

 誰よりも曹操自身が分かっている。

 

 だからこそ面白い。

 

 官渡の戦い。

 

 それは覇王と黒山の狼が互いを認め合いながら戦う、天下最大の激突となっていくのだった。




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