第百四十二話 覇王の執着
官渡。
天下の行方を左右する大戦。
魏王曹操と燕王公孫瓚の戦いは、依然として続いていた。
だが実際には、多くの者が気付き始めていた。
この戦の本当の中心は公孫瓚ではない。
張燕だった。
黒山の狼。
黒山賊の頭領。
燕国の影の支柱。
そして曹操にとって最大の難敵。
魏軍本陣。
深夜。
天幕の中では曹操が一人で地図を眺めていた。
静かな時間だった。
机の上には各地から集められた報告書が並んでいる。
その大半に同じ名前が書かれていた。
張燕。
張燕。
張燕。
どの報告にもその名がある。
補給線襲撃。
夜襲。
偽情報。
奇襲。
陽動。
全て張燕だった。
曹操は思わず笑った。
「本当に飽きない男ね」
そう呟く。
そして報告書を手に取る。
そこには前線基地を襲撃した際の詳細が記されていた。
敵将の配置。
撤退の判断。
被害の最小化。
全てが見事だった。
春蘭なら最後まで戦う。
翠も突っ込む。
恋ですら敵陣を粉砕するだろう。
だが張燕は違う。
勝てる時だけ噛み付く。
危険なら引く。
それができる。
だから生き残る。
だから強い。
「華琳様」
稟が入ってきた。
「まだ起きていたのですね」
「ええ」
曹操は椅子にもたれた。
「眠れないのよ」
「張燕ですか?」
「当然でしょう」
即答だった。
稟が苦笑する。
最近の曹操は明らかだった。
張燕の話ばかりしている。
将たちも気付いている。
秋蘭も。
春蘭も。
皆が気付いていた。
曹操が張燕を異常なほど評価していることを。
「華琳様」
「何かしら」
「正直に申し上げます」
「許可するわ」
稟は真面目な顔になった。
「張燕を欲しがりすぎです」
一瞬の沈黙。
そして。
曹操は堂々と頷いた。
「その通りよ」
「否定しないんですね」
「する必要がある?」
ない。
稟は思った。
この人は本気だ。
本気で張燕を欲しがっている。
「殺すには惜しい」
曹操が呟く。
「敵にしておくには危険」
「味方なら頼もしい」
そして。
青い瞳が鋭く光る。
「なら捕まえればいい」
稟が目を瞬いた。
「捕縛ですか」
「ええ」
曹操は立ち上がった。
その顔にはいつもの覇王の笑みが浮かんでいる。
「殺すのではなく」
「降伏させる」
「私の配下にする」
稟は頭を抱えたくなった。
無茶である。
無謀である。
だが。
目の前の覇王は本気だった。
「春蘭」
「はっ!」
呼ばれて入ってくる。
「秋蘭」
「ここに」
二人も揃う。
曹操は地図を広げた。
「作戦を開始する」
その一言で空気が変わった。
「目標は張燕」
春蘭が首を傾げる。
「討つのですか?」
「違う」
曹操は微笑んだ。
「捕まえるのよ」
春蘭と秋蘭が固まった。
「捕縛?」
「張燕を?」
「生きたまま?」
信じられない。
あの男を?
だが曹操は本気だった。
「呂布でもない」
「趙雲でもない」
「張遼でもない」
「張燕よ」
地図を叩く。
「首ではなく本人が欲しい」
覇王の宣言だった。
翌日。
魏軍では密かに準備が進められる。
偽の補給隊。
偽の情報。
偽の伝令。
全て張燕を誘き出すため。
まるで巨大な網だった。
一方。
燕軍本陣。
張燕は朝から嫌な予感がしていた。
「どうした?」
星が聞く。
張燕は腕を組んだ。
「何か変だ」
「何がだ」
「分からん」
本当に分からない。
だが勘が騒ぐ。
長年賊として生きてきた経験。
死地を潜り抜けた経験。
それが警鐘を鳴らしていた。
「何か来る」
その言葉に星の顔も真剣になる。
「曹操か」
「ああ」
「多分な」
その頃。
遠く魏軍本陣では。
曹操が官渡の空を見上げていた。
「待っていなさい」
青い瞳が細くなる。
「張燕」
その声には獲物を狙う猛獣のような熱があった。
「あなたは必ず手に入れる」
天下。
領土。
名声。
それらと同じくらい。
いや。
もしかするとそれ以上に。
今の曹操は張燕という男に執着していた。
こうして。
官渡の戦場で新たな戦いが始まる。
領土を巡る戦いではない。
国を巡る戦いでもない。
覇王曹操による――張燕捕縛作戦。
それは官渡の戦いをさらに予想外の方向へ進ませることになるのだった。
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