第百四十三話 狼を狩る檻
官渡。
魏と燕が激突する天下最大の戦場。
だが今、曹操の視線は公孫瓚ではなく、一人の男へ向いていた。
張燕。
時雨。
黒山の狼。
その男を捕らえるため、魏軍は密かに動き始めていた。
一方その頃。
燕軍本陣。
張燕は朝から嫌な予感が消えなかった。
賊として生きた年月。
数え切れない死線。
それらが培った勘が警鐘を鳴らしている。
「絶対何か企んでるな」
地図を見ながら呟く。
隣では星が腕を組んでいた。
「曹操か」
「ああ」
「間違いなくな」
白蓮も難しい顔をしている。
「最近妙に静かだ」
「それが怖い」
張燕も同意した。
今までの曹操ならもっと圧力をかけてくる。
しかし数日ほど大きな動きがない。
だからこそ不気味だった。
その時。
伝令が飛び込んできた。
「報告!」
「どうした」
「魏軍補給隊を発見しました!」
全員の視線が向く。
「場所は?」
張燕が尋ねる。
「東部街道です!」
地図に記される。
かなり大規模な輸送隊らしい。
兵糧。
武具。
軍馬。
様々な物資を運んでいるという。
「ほう」
張燕は目を細めた。
「守備は?」
「三千ほど」
少ない。
少なすぎる。
星も同じ感想だった。
「罠だな」
「だな」
二人の答えは一致した。
しかし。
問題は別だった。
もし本物なら大きな戦果になる。
見逃せば損失。
手を出せば危険。
曹操は実に嫌らしい場所を突いてくる。
「時雨」
白蓮が尋ねた。
「どうする?」
張燕は少し考えた。
そして笑った。
「偵察だ」
「偵察?」
「ああ」
補給隊を襲う気はない。
まず確認する。
罠か。
本物か。
それを見極める。
すると翠が不満そうな顔をした。
「襲わないのか?」
「お前は本当に単純だな」
「なんだよ!」
周囲が少し笑う。
緊張が和らぐ。
だが張燕の目は真剣だった。
「今回は慎重に行く」
その言葉に星も頷いた。
同じ考えだった。
数刻後。
張燕。
星。
そして少数の精鋭が現地へ向かう。
森の中を進みながら星が口を開いた。
「珍しいな」
「何がだ」
「お前がここまで慎重なのは」
張燕は苦笑した。
「相手が曹操だからな」
それだけだった。
袁紹ではない。
袁術でもない。
今戦っているのは曹操。
ほんの小さな油断が命取りになる。
それを理解していた。
やがて。
一行は高台へ到着する。
そこから街道が見渡せた。
確かに補給隊がいる。
馬車。
兵糧。
護衛兵。
全て報告通り。
しかし。
「……」
張燕の目が細くなる。
「どうした?」
星が聞く。
「多い」
「何がだ」
「兵だ」
補給隊にしては妙だった。
一見すると三千。
だが動きが違う。
護衛兵にしては統率が取れすぎている。
歩き方。
隊列。
視線。
全てが精鋭だった。
「なるほど」
星も気付いた。
「餌だな」
「ああ」
張燕は笑う。
「しかも大物狙いのな」
その瞬間だった。
森の反対側。
別働隊の伝令が駆け込んでくる。
「頭領!」
「どうした!」
「周辺の森に伏兵を確認!」
張燕と星の表情が変わる。
「数は?」
「一万以上!」
「はっ」
張燕は思わず笑った。
規模が大きい。
大きすぎる。
補給隊を守る数ではない。
つまり。
「俺を狙ってるな」
完全に理解した。
その頃。
魏軍本陣。
曹操は静かに報告を待っていた。
春蘭が落ち着かない様子で歩き回る。
「本当に来るのか?」
「来るわ」
曹操は断言する。
「張燕は好奇心が強い」
「必ず見に来る」
秋蘭も頷いた。
確かにそうだ。
あの男は確認する。
危険を嗅ぎ取る。
だから自分で来る。
それが張燕。
そして。
それこそが今回の狙いだった。
「兵糧などどうでもいい」
曹操が言う。
春蘭と秋蘭が見る。
青い瞳が輝いていた。
「欲しいのは張燕よ」
その言葉には迷いがなかった。
「兵糧庫を失っても構わない」
「砦を焼かれても構わない」
「多少の損害も構わない」
静かに笑う。
「張燕一人と交換できるなら安いものだわ」
春蘭が思わず苦笑した。
「そこまですか」
「そこまでよ」
即答だった。
稟も呆れ半分で肩を竦める。
「張燕殿も大変ですね」
「自業自得よ」
曹操は笑う。
「あれだけ面白い男なら仕方ないでしょう?」
誰も否定できなかった。
一方。
高台の張燕は大きくため息を吐いていた。
「やれやれ」
「どうする?」
星が尋ねる。
張燕は森の奥を見る。
そこには見えない敵が潜んでいる。
おそらく夏侯惇。
夏侯淵。
さらに伏兵。
完全な包囲網。
狼を捕らえるための檻だった。
そして。
張燕は笑った。
「逃げる」
即答だった。
星も笑う。
「そう言うと思った」
「付き合う必要ないからな」
賊の流儀。
勝てない戦はしない。
危険な場所には近付かない。
生き残ることこそ勝利。
張燕は昔からそうだった。
だが。
彼はまだ知らなかった。
曹操はさらにその先まで読んでいたことを。
官渡の戦い。
覇王と狼の知略戦は、さらに深い局面へと進み始めるのだった。
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