第百四十四話 覇王の読み、その先へ
官渡。
天下の命運を決める大戦場。
張燕は高台から街道を見下ろしていた。
眼下では魏軍の補給隊がゆっくりと進んでいる。
一見すると普通の補給隊。
だが違う。
周囲の森には伏兵。
補給隊そのものも精鋭。
全てが張燕を誘い出すための餌だった。
「やれやれ」
張燕は肩を竦める。
「俺も高く評価されたもんだ」
星が笑う。
「嬉しそうだな」
「まあな」
張燕は正直に認めた。
曹操が自分を狙っている。
それは分かっている。
そしてその曹操が、ここまで大規模な作戦を組んでいる。
正直悪い気はしない。
「帰るぞ」
「ん」
星も頷いた。
罠と分かっていて飛び込む理由はない。
賊は生き残る。
それが基本だ。
しかし。
その時だった。
森の奥から新たな伝令が飛び込んできた。
「頭領!」
「どうした」
「大変です!」
息を切らしている。
顔色も悪い。
張燕は眉をひそめた。
「落ち着け」
「は、はい!」
伝令は大きく息を吸った。
そして。
「西方の黒山軍拠点が襲撃されています!」
一瞬。
空気が止まった。
張燕の目が細くなる。
「誰だ」
「魏軍です!」
星の表情も変わる。
「西方だと?」
そこは官渡からかなり離れている。
補給基地でもない。
主力でもない。
黒山軍の小規模拠点の一つだった。
張燕は静かに考える。
そして。
ゆっくりと笑った。
「なるほどな」
「時雨」
星が見る。
張燕は苦笑した。
「やられた」
その一言だった。
補給隊は囮。
伏兵も囮。
全ては張燕の注意を引くため。
本命は別。
曹操は張燕が逃げるところまで読んでいた。
だから。
別方向へ攻撃した。
「曹操らしいな」
張燕は思わず笑う。
普通の将なら補給隊を守る。
普通の軍師なら伏兵で捕縛を狙う。
だが曹操は違う。
さらに一手先を打ってくる。
「どうする」
星が尋ねる。
張燕は地図を見る。
考える。
そして。
「無視だ」
即答だった。
星が目を瞬く。
「いいのか」
「ああ」
張燕は頷く。
「助けに行けば次の罠だ」
それが曹操の狙い。
動揺した張燕を誘導すること。
感情で動かすこと。
だから。
「行かない」
その判断は冷静だった。
だが。
心の中では感心していた。
本当に強い。
戦の上手さなら今までで一番かもしれない。
その頃。
魏軍本陣。
報告を聞いた曹操は微笑んでいた。
「そう」
青い瞳が細くなる。
「助けに来ないのね」
春蘭が首を傾げる。
「来ないのか?」
「来ないわ」
曹操は即答した。
「時雨はそういう男よ」
感情で突撃しない。
怒りで動かない。
損切りができる。
それが厄介だった。
稟が苦笑する。
「本当に理解していますね」
「当然でしょう」
曹操は楽しそうだった。
まるで難問を解く学者のように。
「面白いわ」
そして地図を見る。
張燕。
その名が書かれた場所。
そこへ指を置く。
「もっと見せなさい」
小さく呟く。
「あなたの考えを」
「あなたの才能を」
「あなたの戦いを」
春蘭が呆れる。
「華琳様」
「何かしら」
「やっぱり欲しいんだな」
曹操は迷わなかった。
「ええ」
即答。
稟が吹き出す。
秋蘭も苦笑した。
「隠す気もありませんね」
「ないわ」
堂々としている。
「張燕ほどの男は二人といない」
その評価は本物だった。
一方。
燕軍本陣へ戻った張燕は皆を集めていた。
白蓮。
星。
霞。
翠。
恋。
桂花。
全員が揃う。
「結論から言う」
張燕は地図を広げた。
「曹操は俺を捕まえる気だ」
場が静かになる。
翠が笑った。
「今さらじゃね?」
「そうだな」
張燕も笑う。
「でも想像以上だ」
そして今回の経緯を説明する。
補給隊。
伏兵。
西方襲撃。
全て。
聞き終わった白蓮は頭を抱えた。
「怖すぎるだろ」
「華琳様ですからね」
桂花が誇らしげに言う。
まだ半分は曹操派だった。
「お前どっちの味方だ」
「もちろん時雨様です!」
即答だった。
だがその後。
「華琳様も素晴らしいです!」
と言ったので台無しだった。
周囲が苦笑する。
そんな中。
恋が小さく口を開いた。
「時雨」
「ん?」
「捕まる?」
心配そうだった。
張燕は笑う。
「捕まらん」
「ほんと?」
「ああ」
そして恋の頭を撫でる。
恋は少し嬉しそうだった。
星はそんな様子を見ながら思う。
曹操は強い。
間違いなく今までで最強の敵だ。
だが。
張燕もまた簡単には負けない。
黒山の狼は生き残ることに関して天下一品なのだから。
その夜。
官渡の空には月が浮かんでいた。
遠く離れた場所で。
曹操も。
張燕も。
同じ月を見ていた。
互いに相手を認めながら。
互いに相手を警戒しながら。
そして。
次の一手を考えながら。
官渡の戦いは、いよいよ決戦の気配を帯び始めていた。
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