第百四十五話 覇王の手、狼を掴む
官渡の夜は、静かに見えて異様に重かった。
風は止み、焚かれた篝火だけが揺れている。
その揺らめきの奥で、魏軍はすでに“狩り”を完成させていた。
曹操の張燕捕縛作戦は、最終段階に入っていた。
そして――それは成功した。
燕軍本陣から離れた外縁部。
そこは一見、何もない森だった。
だがその森は、最初から「檻」だった。
「……動きが遅い」
星は違和感に気付いた瞬間、馬を止めた。
夜道。
張燕と二人で移動していた帰還途中。
だが周囲の空気が明らかに違う。
音がない。
鳥も鳴かない。
虫の声すら消えている。
「時雨」
星の声は低かった。
「まずい」
「ああ」
張燕もすぐに気付いていた。
この沈黙は自然ではない。
戦場での沈黙は“作られた静寂”だ。
その瞬間だった。
森の奥から火矢が一斉に放たれる。
空を裂くような光。
そして――
「囲め!!」
魏軍の号令が響いた。
地面が揺れる。
四方。
すべての方向から兵が立ち上がる。
完全包囲。
逃げ道なし。
それは補給隊を餌にした罠でもなく、伏兵でもない。
最初からここが本命だった。
「やっぱりここかよ」
張燕は舌打ちしながら笑った。
その目は怒っていない。
むしろ楽しんでいる。
だが星は違った。
「時雨、離れろ」
「いや」
張燕は即答した。
「いや?」
「ここで分かれた方がいい」
その言葉に星の目が揺れる。
張燕はすでに状況を完全に理解していた。
この包囲は異常だ。
魏軍の精鋭が揃っている。
夏侯惇。
夏侯淵。
さらに郭嘉の策。
そして――
「曹操か」
その名を呟いた瞬間。
森の奥から馬蹄が響く。
ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
静かだった。
異様なまでに整った足音。
その中心にいたのは、たった一人。
金髪。
青い瞳。
魏王。
曹操だった。
「ようやく見つけたわ」
その声は戦場の喧騒とは対照的に静かだった。
だが確かに熱を帯びている。
星が小さく息を呑む。
「曹操……」
張燕は笑った。
「わざわざご苦労さんだな」
「いいえ」
曹操は馬から降りる。
そして一歩、また一歩と歩く。
その視線は張燕から一度も逸れない。
「やっと捕まえたのよ」
張燕の周囲にはすでに魏軍の精鋭が展開している。
退路は完全に断たれていた。
星が小声で言う。
「時雨、逃げろ」
「いや」
「なぜだ」
張燕は少しだけ目を細めた。
「ここで逃げると、全部崩れる」
星は理解した。
これはただの包囲ではない。
曹操の戦略の完成形だ。
張燕を逃がさないための“心理戦”まで含めた檻。
曹操は歩みを止める。
その距離、十歩。
「張燕」
名前を呼ぶ声は、まるで親しい者に語りかけるようだった。
「あなたは本当に厄介ね」
「そっちもな」
張燕は軽く笑う。
だが次の瞬間だった。
魏軍が動く。
「捕縛せよ!!」
号令。
同時に矢と槍が周囲を封鎖する。
「来るぞ!」
戦闘開始。
だがその戦闘は一瞬で決着がついた。
圧倒的な兵力差ではない。
問題は配置だった。
退路を潰されている。
張燕の戦い方――「逃げながら崩す」戦術が封じられている。
星が戦線を切り開こうとする。
だがその瞬間。
森の奥からさらに伏兵。
完全に読み切られていた。
「くっ……!」
星が押される。
そして。
曹操は一歩前に出た。
「抵抗は無駄よ」
静かな声。
「あなたの動きは全部読んでいる」
張燕は目を細める。
「へぇ」
少しだけ笑う。
「それは光栄だな」
その瞬間だった。
曹操の視線が星に向いた。
「彼女を逃がしなさい」
その一言。
星が固まる。
「何?」
曹操は続ける。
「あなた一人が欲しいの」
張燕が笑う。
「俺だけ?」
「そう」
即答だった。
狂気ではない。
冗談でもない。
本気だった。
曹操は本当に“張燕だけ”を欲していた。
兵でもない。
領土でもない。
この男そのもの。
「はは」
張燕は思わず笑った。
「そこまでかよ」
「そこまでよ」
曹操の青い瞳が揺らがない。
「あなたは必要なの」
「私の下に来なさい」
静かな命令。
だがそれは命令ではなく――願いに近かった。
星が動く。
「時雨!」
「逃げろ」
張燕が言った。
「は?」
「お前は行け」
星の目が揺れる。
「何を言っている」
「いいから」
張燕は軽く手を振る。
「ここは俺がやる」
「一人でか」
「そうだ」
その瞬間。
星は理解した。
これは撤退命令ではない。
時間稼ぎだ。
張燕はこの状況を利用している。
そして――
「曹操の目的も分かってる」
張燕は小さく呟いた。
「俺を捕まえることだろ?」
曹操は微笑む。
「ええ」
「なら試してみろよ」
その言葉と同時に。
張燕は一気に動いた。
星を弾き飛ばすように後方へ蹴る。
「行け!!」
「時雨!!」
星は一瞬迷った。
だが次の瞬間、森の外へ飛び出す。
魏軍が追う。
しかし曹操が手を上げる。
「追わなくていい」
静かな声だった。
全員が止まる。
そして――
曹操はゆっくりと張燕に歩み寄る。
二人だけが残る空間。
森の中。
篝火の光。
覇王と狼。
曹操は笑った。
「捕まえたわ、張燕」
張燕は肩を竦める。
「……マジかよ」
そして。
官渡の戦場において――
ついに“捕縛”は成功した。
だがそれは終わりではない。
覇王は獲物を手に入れた瞬間から、さらに深く欲し始める。
曹操は張燕を見つめたまま、静かに言った。
「ねえ張燕」
「何だ」
「あなた、私のところに来る気はまだない?」
その声は、戦場の勝者のものではなく。
ただ一人の男を欲する、危ういほどの執着だった。
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