【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

145 / 152
第百四十六話 官渡落つ、狼は檻へ

第百四十六話 官渡落つ、狼は檻へ

 

 

 

 官渡の戦いは、静かに終わりを迎えつつあった。

 

 それは劇的な勝利の咆哮ではなく、緻密に積み上げられた盤面がひっくり返るような、冷たい終幕だった。

 

 魏王曹操は、ついに張燕を捕らえた。

 

 それは戦場の勝利以上の意味を持っていた。

 

 燕軍は撤退を開始する。

 

 夜明け前の戦場には、焦げた土と折れた旗だけが残されていた。

 

 官渡。

 

 その地名は後に「魏の勝利」と記されることになる。

 

 しかしその真の理由を知る者は少ない。

 

 勝敗を決めたのは軍勢ではない。

 

 ただ一人。

 

 曹操が“欲した男”だった。

 

――魏軍本陣。

 

 張燕は拘束されていた。

 

 鎖ではない。

 

 過剰な拘束具でもない。

 

 しかし逃げられないよう、精密に配置された護衛と空間制御。

 

 まるで戦場そのものが檻になっているかのようだった。

 

「やれやれ……」

 

 張燕は苦笑する。

 

 両腕は自由だが、周囲には夏侯惇と夏侯淵。

 

 さらに郭嘉の視線が遠くから突き刺さっている。

 

「ここまでやるかよ」

 

 その声は妙に軽い。

 

 敗北者のものではない。

 

 まだ戦いが続いている者の声だった。

 

 夏侯惇――春蘭が睨む。

 

「大人しくしろ!」

 

「してるっての」

 

 張燕は肩を竦める。

 

 夏侯淵――秋蘭は冷静に状況を見ている。

 

「姉者、彼は暴れる気配はない」

 

「でも油断するな!」

 

「分かっている」

 

 そのやり取りを遠くで見ていた曹操が、ゆっくりと歩み出る。

 

 金髪が夜明けの光を受けて揺れる。

 

 青い瞳は一切の迷いを見せていない。

 

「下がりなさい」

 

 一言。

 

 それだけで空気が変わる。

 

 夏侯惇と夏侯淵は即座に従った。

 

 郭嘉も一歩引く。

 

 残るのは曹操と張燕だけ。

 

 静寂。

 

 朝焼けの光が二人を照らす。

 

 曹操はしばらく張燕を見つめていた。

 

 そして、ふっと笑う。

 

「ようやく捕まえたわね」

 

 張燕は鼻で笑う。

 

「捕まえたって言うか……連れてきただけだろ」

 

「同じことよ」

 

「いや違うだろ」

 

 軽口。

 

 戦場とは思えない空気。

 

 だがその実態は、天下を左右する重さを持っている。

 

 曹操は一歩近づく。

 

「張燕」

 

 その名を呼ぶ声は、妙に柔らかい。

 

 張燕は少しだけ目を細める。

 

「何だよ」

 

「許昌へ来てもらうわ」

 

「は?」

 

「正式に」

 

 曹操の言葉は静かだったが、揺るぎない。

 

 それは命令ではない。

 

 決定だった。

 

「戦は終わり」

 

「官渡は魏の勝利」

 

「あなたは私の管理下に置く」

 

 張燕は笑う。

 

「管理って言い方やめろ」

 

「事実よ」

 

 曹操は一切崩さない。

 

 そのまま一歩、さらに近づく。

 

 距離が詰まる。

 

 ほぼ至近。

 

 張燕の視界いっぱいに曹操の顔が入る。

 

 青い瞳が真っ直ぐに彼を捉えていた。

 

「ねえ張燕」

 

「まだ言うか」

 

「あなた、私の下で働く気はない?」

 

 静かな問い。

 

 だがそこには戦略も圧力もあった。

 

 しかしそれ以上に――

 

 執着があった。

 

 張燕は少しだけ黙る。

 

 そして笑う。

 

「ねえよ」

 

 即答だった。

 

 曹操も微動だにしない。

 

「そう」

 

「だろうな」

 

 むしろ納得したように頷く。

 

 そこに怒りはない。

 

 むしろ嬉しさすらある。

 

 稟が遠くで小さくため息を吐いた。

 

(やはりこうなるか……)

 

 春蘭は不満そうにしているが、曹操が止めているため手は出せない。

 

 秋蘭は状況を冷静に見ていた。

 

「華琳様は本気だな……」

 

 その頃。

 

 燕軍残存部隊は撤退中だった。

 

 星は後方で指揮を執っている。

 

 撤退は整然としているが、誰も表情は明るくない。

 

 白蓮が呟く。

 

「時雨は……?」

 

 星は短く答えた。

 

「捕まった」

 

 一瞬の沈黙。

 

 誰もが理解する。

 

 これは敗北だ。

 

 だが――張燕が死んだわけではない。

 

 だから絶望ではない。

 

 ただの「戦略的撤退」。

 

 星は馬上で空を見上げる。

 

「曹操か……」

 

 その声には悔しさが混じっていた。

 

 だが同時に、奇妙な納得もあった。

 

 あの男なら捕まってもおかしくない。

 

 いや――

 

 捕まってもなお、終わらない。

 

――魏軍陣内。

 

 張燕は連行される準備をされていた。

 

 鎖ではない。

 

 丁重な護送。

 

 しかし逃げられない構造。

 

 完全な管理下。

 

 曹操が横に立つ。

 

「許昌へ行くわ」

 

「強制かよ」

 

「当然」

 

 即答だった。

 

 張燕はため息を吐く。

 

「そこまでして俺欲しいか?」

 

 曹操は迷わなかった。

 

「欲しいわ」

 

 その一言は、戦場のどの命令より重かった。

 

 張燕は少しだけ目を細める。

 

「物扱いすんなよ」

 

「違うわ」

 

 曹操は微笑む。

 

「あなたは“戦力”じゃない」

 

「?」

 

「“必要な存在”よ」

 

 その言葉に、張燕は一瞬だけ黙る。

 

 だがすぐに笑う。

 

「意味分かんねぇな」

 

「そのうち分かるわ」

 

 曹操は背を向ける。

 

「連れて行きなさい」

 

 その瞬間。

 

 官渡の戦いは正式に終結した。

 

 魏の勝利。

 

 燕軍の撤退。

 

 そして――

 

 張燕の捕縛。

 

 だがそれは終わりではない。

 

 むしろ始まりだった。

 

 覇王曹操が、“一人の男を手に入れた”瞬間から始まる、新たな戦いの幕開けだった。




感想、評価、お気に入りよろしくお願い致します!

ヒロインアンケート

  • 雪蓮
  • 華琳
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。