第百四十七話 真名の檻
許昌。
魏の心臓とも言える都。
官渡の戦いが終わって数日後、張燕はその地へと連行されていた。
正確には「護送」と呼ばれるものだったが、実態はほぼ監視付きの移送だった。
だが扱いは不思議なほど丁重でもある。
牢に入れられるわけでもなく、拷問を受けるわけでもない。
ただ――自由だけがない。
与えられた屋敷の一室。
そこが張燕の“檻”だった。
「……豪華な牢屋だな」
張燕は部屋を見回して呟いた。
畳ではなく絨毯。
木造だが調度品は整っている。
窓の外には庭園まで見える。
しかし外には常に魏軍の兵が立っている。
逃げ道はない。
「ここで暮らせってか?」
ため息を吐いた瞬間、扉が開く。
入ってきたのは曹操だった。
金色の髪が揺れる。
青い瞳は相変わらず真っ直ぐだ。
「おはよう、張燕」
「毎回思うけど、勝手に入ってくるなよ」
「ここは私の城よ」
「俺の部屋でもあるんだが」
「管理下よ」
即答だった。
張燕はもう突っ込むのをやめた。
数日で慣れた。
曹操は椅子に座ると、まるで当然のように話し始める。
「今日も時間をもらうわ」
「またかよ」
「当然」
これが日常になっていた。
許昌に来てからというもの、曹操は毎日必ず張燕の元を訪れていた。
朝。
昼。
夜。
時間帯すら選ばない。
理由は一つ。
「あなたを理解するためよ」
「理解ってなんだよ」
「そのままの意味」
曹操は机に地図を広げる。
戦の話をする日もあれば、軍の編成を語る日もある。
だが今日の話題は違った。
「張燕」
「なんだ」
「真名を教えなさい」
張燕は一瞬黙る。
「は?」
「真名よ」
曹操は真っ直ぐ見てくる。
「あなたの本当の名」
この世界において真名は重い。
信頼。
絆。
あるいは支配。
容易に明かすものではない。
張燕は肩を竦めた。
「別にいいだろ、今のままで」
「駄目よ」
即答だった。
「私はあなたをただの捕虜として扱うつもりはない」
「じゃあなんだよ」
「対等な関係」
張燕は笑った。
「捕まえてる時点で対等じゃねぇだろ」
「これからよ」
曹操は一歩近づく。
その距離はすでに戦場より近い。
「私はあなたを配下にしたいわけじゃない」
「じゃあ何だ」
「隣に置きたい」
その言葉は、戦場のどの命令よりも重かった。
張燕は一瞬だけ黙る。
だがすぐに笑う。
「物騒なこと言うな」
「本気よ」
曹操の目は揺れない。
数日間の執着は、もはや狂気に近いほどに形を持っていた。
それでも理性はある。
だからこそ厄介だった。
張燕は頭をかく。
「真名ってのはな」
「ええ」
「簡単に渡すもんじゃない」
「知っているわ」
曹操は即答する。
「だから欲しいの」
平然と言う。
張燕はため息を吐いた。
「お前な……」
「華琳でいいわ」
「は?」
曹操は静かに言った。
「あなたにだけは許す」
空気が止まる。
それは重い意味を持つ言葉だった。
魏王としてではない。
一人の女性としての“真名の開示”。
張燕は目を細める。
「それ本気か?」
「ええ」
曹操は一切迷わない。
「私はあなたを信じている」
即座に出た言葉に、張燕は軽く笑った。
「信用の順番おかしいだろ」
「そう?」
「捕まえてから信じるな」
「結果が先でもいいわ」
曹操は微笑む。
完全に論理が狂っている。
だがその狂気は一貫している。
「だからあなたも教えなさい」
「真名を」
張燕は天井を見る。
少し長く黙る。
そして――
「……黒狼でいい」
「それは偽名よ」
「今はそれで十分だ」
曹操は目を細める。
「まだ拒むのね」
「当たり前だろ」
張燕は肩を竦める。
「そんな簡単に渡すもんじゃねぇ」
その答えに曹操は少しだけ笑った。
「いいわ」
「?」
「なら交換しましょう」
張燕は眉を上げる。
「交換?」
「ええ」
曹操は静かに言う。
「あなたが真名をくれるなら」
「私は華琳ではなく、“曹操”としてあなたに向き合う」
そして一歩近づく。
「どう?」
張燕は苦笑する。
「取引かよ」
「戦場と同じよ」
その言葉に、妙な説得力があった。
張燕はしばらく黙る。
そして――
「……分かった」
小さく言った。
曹操の目がわずかに揺れる。
張燕はゆっくりと息を吐く。
「俺の真名は――時雨」
そして告げる。
その瞬間、空気が変わった。
ただの名前ではない。
それは信頼の証だった。
曹操は一瞬だけ目を閉じる。
そして――
「分かったわ、時雨」
今度は“華琳”ではなく、“曹操”として。
彼女はそう返した。
真名の交換。
それは主従ではない。
征服でもない。
ましてや捕虜と監視者でもない。
それは危うい均衡の上に成立した――
覇王と狼の、奇妙な“対等”だった。
その日から。
張燕の“檻”は少しだけ形を変え始めることになる。
曹操の執着は、さらに深く。
そして確実に、彼の世界へと踏み込んでいくのだった。
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