第百四十八話 夜の侵入者
許昌の夜は静かだった。
戦の喧騒もなく、官渡の血の匂いも遠い。
だがその静けさは、平穏ではない。
むしろ、何かが忍び寄る前の沈黙に近かった。
張燕の与えられた屋敷。
その一室。
時雨は寝台に横になっていた。
「……やれやれ」
天井を見上げる。
この数日、生活は奇妙だった。
監禁ではない。
客人でもない。
自由でもない。
その曖昧な立場が、逆に落ち着かない。
「曹操のやつ……」
毎日のように来る女。
話し、笑い、戦を語り、時に黙る。
そして必ず言う。
“あなたが欲しい”と。
最初は冗談だと思っていた。
だが今は違う。
本気だ。
狂気に近い執着。
その証拠に――
ガサッ
音がした。
張燕の目が一瞬で開く。
「……誰だ」
返事はない。
だが空気が変わる。
窓の外では見張りの兵がいるはず。
それなのに気配が薄い。
まるで最初から“そこにいないかのように”。
静かに、扉が開いた。
軋む音すら最小限。
そして――
そこに立っていたのは曹操だった。
「おやすみ、時雨」
平然と言った。
夜着。
髪は下ろされている。
昼間の魏王ではない。
完全に一人の女性だった。
張燕は思わず起き上がる。
「おい」
「何かしら」
「なんでいる」
「来たからよ」
即答。
理屈はない。
常識もない。
ただ事実だけがそこにある。
「いや来たからじゃなくてな」
「夜は静かでいいわね」
「話聞け」
曹操は部屋を見回す。
そして当然のように歩き出す。
寝台へ。
そのまま座る。
張燕の隣に。
「おい!!」
「何?」
「ここ俺の部屋だぞ」
「そうね」
「そうねじゃねぇよ!」
曹操は軽く首を傾げる。
「問題ある?」
「大ありだ」
即答。
しかし曹操は全く動じない。
むしろ楽しそうですらあった。
「警備は?」
「外にいる」
「入れたのか?」
「許可はしていないわ」
「じゃあどうやって入った」
曹操は少し考える。
「普通に」
「普通に?」
「ええ」
張燕は頭を抱えた。
「……お前、魏王だろ」
「ええ」
「なんで侵入者みたいなことしてんだよ」
「あなたに会うためよ」
その一言は、あまりに自然だった。
張燕は黙る。
曹操はその横で横になる。
完全に寝る体勢である。
「おい」
「何かしら」
「帰れ」
「嫌よ」
即答。
張燕はため息を吐く。
「お前な……」
「華琳ではなく曹操よ」
「どっちでもいいわ」
曹操は目を閉じる。
「少しだけ」
「何がだ」
「隣にいさせて」
張燕は固まる。
その言葉は命令でも策略でもない。
ただの願いだった。
あまりにも素直な。
あまりにも危険な。
張燕は視線を逸らす。
「……意味分かんねぇ」
「分かる必要はないわ」
曹操は静かに言う。
「私はあなたが欲しい」
「毎日言ってるな」
「ええ」
迷いがない。
張燕は天井を見上げる。
「お前、王だろ」
「そうね」
「その王が寝台に侵入してくるのはどうなんだ」
「効率的よ」
「何がだよ」
「時間」
曹操はさらりと言う。
「昼は戦略」
「夜は確認」
「あなたは重要資源だから」
「人を資源扱いするな」
軽く笑いながらも、張燕は完全には拒否しない。
その空気を曹操は正確に読んでいた。
だからこそ踏み込む。
少しだけ距離を詰める。
「時雨」
「なんだ」
「許昌は嫌?」
「別に」
「逃げたい?」
「今のところはな」
「ならいいわ」
曹操は目を閉じる。
静かな呼吸。
本当に寝ようとしている。
張燕は横目で見る。
「おい」
「何?」
「本気で寝る気か」
「ええ」
「ここで?」
「ええ」
即答。
張燕はため息を吐いた。
「お前の警備どうなってんだよ」
「優秀よ」
「なら止めろよ」
「止めないわ」
曹操は少しだけ笑う。
「だってあなた、逃げないでしょう?」
張燕は言葉を失う。
その通りだった。
逃げようと思えば逃げられる状況ではない。
だが――今すぐ逃げる必要も感じない。
その曖昧さが問題だった。
曹操は静かに言う。
「時雨」
「何だ」
「あなたは面白いわ」
「またそれか」
「ええ」
そして一拍置く。
「だから欲しい」
張燕は苦笑する。
「執着の理由それかよ」
「十分でしょう?」
曹操は目を閉じたまま言う。
「戦で強い」
「逃げるのが上手い」
「人を動かす」
「でも誰にも従わない」
「それがいい」
張燕は小さくため息を吐く。
「褒めてんのかそれ」
「称賛よ」
沈黙。
夜は深い。
外では風が揺れる。
だが部屋の中は奇妙な静けさだった。
曹操は本当にそのまま眠りに落ちそうになっている。
張燕は横を見る。
覇王。
魏王。
天下を狙う女。
それが自分の隣で無防備に横になっている。
「……本当に意味分かんねぇ女だな」
小さく呟く。
曹操は目を閉じたまま微笑む。
「褒め言葉として受け取るわ」
その夜。
張燕の部屋は、奇妙な均衡のまま夜を越えた。
覇王は侵入し。
狼はそれを追い出さず。
そして二人の距離は、さらに危うく近づいていくのだった。
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