【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第百四十九話 呼ばれぬ名

第百四十九話 呼ばれぬ名

 

 

 許昌の朝は、昨日と同じように始まった。

 

 だが張燕にとっては、昨日とはまるで違う朝だった。

 

 理由は単純だ。

 

 目を開けた瞬間、隣に曹操がいたからである。

 

「……おい」

 

 張燕は天井を見上げたまま呟く。

 

 隣では金髪の女が普通に寝ている。

 

 まるでそこが当然の場所であるかのように。

 

「起きてるか?」

 

 返事はない。

 

 呼吸は穏やかだ。

 

 本当に寝ている。

 

「おい、曹操」

 

 その瞬間、ぴくりと肩が動いた。

 

 しかし起きない。

 

 ただ、わずかに眉が動いた。

 

 張燕はため息を吐く。

 

「……ほんと自由だな、お前」

 

 やがて曹操はゆっくりと目を開けた。

 

 青い瞳が朝の光を受けて揺れる。

 

「おはよう、時雨」

 

「おはようじゃねぇよ」

 

「そう?」

 

 全く悪びれない。

 

 張燕は体を起こす。

 

「毎回思うけどさ」

 

「何かしら」

 

「なんで普通にいるんだよ」

 

「ここは許昌よ」

 

「俺の部屋だろ」

 

「私の城でもあるわ」

 

 即答。

 

 会話が成立しているようで成立していない。

 

 張燕は頭を掻いた。

 

 この女は理屈で動かない。

 

 だが妙に筋は通っている。

 

 その矛盾が一番厄介だった。

 

 曹操は寝台に座ったまま、じっと張燕を見る。

 

 その視線は戦場のものとは違う。

 

 鋭さよりも、執着に近い。

 

「時雨」

 

「なんだよ」

 

「一つお願いがあるわ」

 

「嫌な予感しかしねぇな」

 

 曹操は少しだけ目を細めた。

 

「私を“華琳”と呼びなさい」

 

 張燕は固まる。

 

「……は?」

 

「華琳よ」

 

 再度言う。

 

 当然のように。

 

 張燕は額を押さえる。

 

「いや、それ前も言ったけどさ」

 

「ええ」

 

「お前、自分から言ってただろ。曹操って呼べって」

 

「状況が変わったの」

 

「どこがだよ」

 

 曹操は真剣な顔をする。

 

 それが逆に怖い。

 

「今の私は、あなたにだけは“華琳”でありたい」

 

 張燕は黙る。

 

 しばらく考える。

 

 そして一言。

 

「意味分かんねぇ」

 

「分かる必要はないわ」

 

 即答。

 

 迷いがない。

 

 張燕はため息を吐く。

 

「お前さ」

 

「何かしら」

 

「たまに人間じゃなくなるよな」

 

「失礼ね」

 

 曹操は少しだけ笑う。

 

 だがその笑みはどこか危うい。

 

 そして静かに続ける。

 

「時雨」

 

「なんだ」

 

「私はあなたが欲しい」

 

 またか。

 

 張燕はもう驚かない。

 

 だが今日は違った。

 

 曹操の目はいつもより真剣だった。

 

「欲しいって何だよ」

 

「そのままの意味」

 

「だから人扱いしろって」

 

「しているわ」

 

 曹操は一歩近づく。

 

 距離が詰まる。

 

 逃げ場がないほどではないが、十分近い。

 

「私はあなたを“道具”としては見ていない」

 

「じゃあ何だ」

 

「必要な存在」

 

 張燕は鼻で笑う。

 

「それも十分物騒だぞ」

 

「そうかしら」

 

 曹操は軽く首を傾げる。

 

「あなたがいないと困るの」

 

 その言葉は、戦略でも脅しでもなかった。

 

 純粋な事実として出ていた。

 

 張燕は少し黙る。

 

 そして視線を逸らす。

 

「……朝から重いんだよ」

 

「軽い話をしているつもりはないわ」

 

 曹操は即答する。

 

 そして少しだけ間を置いてから言った。

 

「時雨」

 

「なんだ」

 

「なぜ“華琳”と呼ばないの?」

 

 その問いは、少しだけ柔らかかった。

 

 張燕はしばらく黙る。

 

 そして肩を竦める。

 

「呼ぶ理由がねぇ」

 

「私は名を許したわ」

 

「それはそうだけどさ」

 

「なら問題ないでしょう」

 

「そういう問題じゃねぇ」

 

 曹操は少しだけ不満そうな顔をする。

 

 珍しい表情だった。

 

「私はあなたにだけは特別でいたいの」

 

 張燕は固まる。

 

 その言葉は戦場には似合わない。

 

 覇王の言葉としてはあまりに個人的すぎる。

 

 曹操は続ける。

 

「他の誰でもない」

 

「あなたにだけ」

 

「“華琳”でありたい」

 

 沈黙。

 

 朝の光が部屋に差し込む。

 

 鳥の声が遠くで聞こえる。

 

 その静けさの中で、張燕は小さく息を吐いた。

 

「……お前さ」

 

「何かしら」

 

「ほんと面倒な女だな」

 

 曹操は少しだけ笑った。

 

「よく言われるわ」

 

 張燕は頭を掻く。

 

 そして、観念したように言う。

 

「分かったよ」

 

 曹操の目がわずかに動く。

 

「ただし条件だ」

 

「何?」

 

「しつこく言うな」

 

 曹操は即答した。

 

「無理ね」

 

「即答すんな」

 

「だって欲しいものは欲しいもの」

 

 完全にブレない。

 

 張燕はため息を吐く。

 

「ほんと怖ぇよお前」

 

 曹操は一歩近づく。

 

 そして、静かに見上げる。

 

「ねえ時雨」

 

「なんだ」

 

「一度だけでいい」

 

 その声は少しだけ弱かった。

 

「華琳と呼んで」

 

 張燕は黙る。

 

 その顔はいつもの軽さを少し失っている。

 

 やがて、短く息を吐く。

 

「……華琳」

 

 一言。

 

 それだけ。

 

 曹操の目がわずかに見開かれる。

 

 そして――

 

 ふっと、笑った。

 

 それは覇王の笑みではなかった。

 

 ただの一人の女の、満足そうな笑みだった。

 

「……いいわね」

 

 静かに呟く。

 

 張燕は顔を背ける。

 

「もう満足だろ」

 

「ええ」

 

 即答。

 

 だが続ける。

 

「でも、もっと聞きたいわ」

 

「やっぱりそうなるよな」

 

 曹操は軽く笑う。

 

 そして一歩下がる。

 

 距離は少し戻った。

 

 だが関係は戻っていない。

 

 むしろ深くなっていた。

 

「時雨」

 

「なんだ」

 

「私はあなたが欲しい」

 

 またその言葉。

 

 だが今度は少し違って聞こえた。

 

 張燕はため息を吐く。

 

「知ってるよ」

 

 朝の光の中。

 

 覇王は笑い。

 

 狼はため息を吐く。

 

 そしてその関係は、さらに危うく、さらに濃くなっていくのだった。




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