【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第百五十話 孤狼の算段

第百五十話 孤狼の算段

 

 

 許昌を中心とした魏の勢いは、もはや止まる気配がなかった。

 

 官渡の勝利を起点に、魏軍は各地で連戦連勝を重ねている。

 

 補給線は整い、兵の士気は高く、指揮系統は一切の乱れがない。

 

 それはまるで、一人の覇王の意志が大陸全土に浸透していくかのようだった。

 

 その中心にいるのが曹操である以上、それは当然の帰結でもあった。

 

――だが。

 

 その勢いの裏で、ひとつの勢力が確実に削られていた。

 

 燕軍。

 

 黒山を基盤とする張燕の軍勢は、魏の圧力を受け続けていた。

 

 正面からの大軍ではない。

 

 しかし局地戦。

 

 補給妨害。

 

 小規模拠点の連続的な制圧。

 

 そのすべてが積み重なり、確実に“地盤”を削っていく。

 

「……じわじわ来てるな」

 

 張燕は地図を見ながら呟いた。

 

 許昌の屋敷。

 

 曹操の“監視下”に置かれた部屋。

 

 そこは檻でありながら、戦略会議室でもあった。

 

 張燕の前には地図が広げられている。

 

 そしてその横には――

 

「ここ、補給線切られてるわね」

 

 曹操が普通に座っている。

 

 当然のように。

 

 まるで自分の軍議であるかのように。

 

「お前な」

 

 張燕はため息を吐く。

 

「なんで毎回いるんだよ」

 

「必要だからよ」

 

「何がだ」

 

「あなたの判断を観察するため」

 

 即答だった。

 

 迷いはない。

 

 張燕は頭を抱える。

 

 この女は本当にブレない。

 

 だが、その分析は正確すぎて逆に腹が立つ。

 

「で?」

 

 曹操は顎に指を当てる。

 

「燕軍はもう持たないわね」

 

 その一言は、軽いようで重い。

 

 張燕は黙った。

 

 否定できない。

 

 現実としてその通りだった。

 

 黒山の拠点は徐々に削られている。

 

 公孫瓚との連携は維持されているが、それでも限界がある。

 

 そして何より――

 

「俺がここにいる」

 

 張燕は呟く。

 

 曹操は少しだけ目を細めた。

 

「それが一番の問題ね」

 

 即答だった。

 

 張燕は苦笑する。

 

「おい」

 

「事実よ」

 

 曹操は淡々と続ける。

 

「あなたがここにいる限り、燕軍は動きが鈍る」

 

「指揮が分散する」

 

「士気も揺れる」

 

「そして何より」

 

 少し間を置く。

 

「“あなたの判断”が止まる」

 

 張燕は黙る。

 

 正論だった。

 

 だからこそ厄介だった。

 

 張燕は椅子に背を預ける。

 

「……分かってるよ」

 

 その声はいつもより低い。

 

 曹操はその変化を見逃さない。

 

「時雨」

 

「なんだ」

 

「悩んでいるわね」

 

 張燕は鼻で笑う。

 

「そりゃな」

 

 戦場ではなく、戦略の話だ。

 

 勝てない戦いではない。

 

 しかしこのままでは“削られて死ぬ”。

 

 それが一番厄介だった。

 

 曹操は静かに言う。

 

「黒山を守る理由は?」

 

 張燕は少し黙る。

 

 そして答える。

 

「……居場所だ」

 

 一言だった。

 

 それ以上でもそれ以下でもない。

 

 曹操はそれを聞いて目を細める。

 

「そう」

 

 短い返事。

 

 だがその意味を深く噛み砕いている。

 

 張燕は続ける。

 

「そこが潰れたら、俺はただの流浪だ」

 

「今もそうでは?」

 

「一応根はある」

 

「今は私の許昌?」

 

「言い方やめろ」

 

 曹操は小さく笑う。

 

 そして立ち上がる。

 

 ゆっくりと窓の方へ歩く。

 

 外では兵が訓練をしている。

 

 整然とした動き。

 

 完璧な統率。

 

 魏の強さそのものだった。

 

「時雨」

 

「なんだ」

 

 曹操は振り返らない。

 

「燕軍は潰れるわ」

 

 断言。

 

 張燕は黙る。

 

 否定しない。

 

 できない。

 

 曹操は続ける。

 

「時間の問題よ」

 

 静かな声だった。

 

 それは勝者の慢心ではない。

 

 現実の観察だった。

 

 張燕はゆっくり息を吐く。

 

「……だろうな」

 

 短く認める。

 

 その瞬間。

 

 部屋の空気が少し重くなる。

 

 曹操が振り返る。

 

「なら選びなさい」

 

 張燕は目を上げる。

 

「選ぶ?」

 

「ええ」

 

 曹操は一歩戻る。

 

 その距離は近い。

 

 近すぎるほどに。

 

「燕軍として死ぬか」

 

「それとも」

 

 少し間。

 

「魏の中で生きるか」

 

 張燕は笑う。

 

「二択しかねぇのかよ」

 

「十分でしょう」

 

 即答だった。

 

 張燕は天井を見る。

 

 黒山。

 

 星。

 

 白蓮。

 

 恋。

 

 そして――自分の居場所。

 

 すべてが少しずつ削られていく。

 

 その現実が重い。

 

 曹操は静かに続ける。

 

「あなたは賢い」

 

「だから分かるはずよ」

 

「このままでは全て失う」

 

 張燕は目を閉じる。

 

 しばらく沈黙。

 

 そして――

 

「……ああ」

 

 一言。

 

 認めた。

 

 曹操はその答えを待っていたように頷く。

 

「なら」

 

「まだ決めてねぇよ」

 

 張燕は即座に言う。

 

 曹操は微笑む。

 

「そう」

 

 その表情には余裕がある。

 

 焦りはない。

 

 張燕はまだ折れていない。

 

 それもまた“想定内”だった。

 

 曹操は小さく言う。

 

「私はあなたを諦めないわ」

 

 張燕は苦笑する。

 

「それは知ってる」

 

 外では風が吹く。

 

 許昌の空は静かだった。

 

 だがその静けさの裏で、確実に何かが進んでいる。

 

 燕は削られ。

 

 魏は伸びる。

 

 そして張燕は――

 

 まだ決めきれないまま、ただ一人で立ち続けていた。




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