第百五十一話 降る狼
許昌の空は、いつもと変わらず静かだった。
だが張燕の中では、何かがはっきりと崩れていた。
それは敗北の痛みではない。
もっと冷たい現実の認識だった。
このままでは、黒山は保たない。
燕軍は削られ続け、各地の拠点は崩壊寸前。
そして何より――
守るべき人間が増えすぎていた。
「……決めた」
張燕は独り、部屋の中で呟いた。
窓の外には許昌の城壁。
その向こうにいるのは魏軍。
そしてその中心にいるのは曹操だ。
迷いはあった。
だが結論は一つしかなかった。
その時、扉が開く。
当然のように曹操が入ってくる。
「おはよう、時雨」
いつもの調子だった。
だが張燕はその声を遮った。
「華琳」
一瞬、空気が止まる。
曹操の動きがわずかに止まる。
青い瞳が張燕を見た。
「……珍しいわね」
張燕はゆっくり息を吐く。
「話がある」
「ええ」
曹操は椅子に座る。
それが当然のように。
張燕は真正面に立ったまま続けた。
「燕軍は終わりだ」
曹操は表情を変えない。
「そう」
ただそれだけ。
張燕は続ける。
「このまま戦っても、黒山は潰れる」
「分かっているわ」
「だから」
一拍。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
張燕ははっきりと言った。
「燕軍は魏軍に降伏する」
静寂。
外の音すら遠くなる。
曹操のまなざしが細くなる。
「……続けなさい」
張燕は続ける。
「俺も降る」
「そして魏に仕える」
その言葉は、簡単に言えるものではない。
黒山の頭領としての終わり。
反乱者としての終わり。
そして――自分の居場所の再定義。
だが張燕は迷わなかった。
「ただし条件がある」
曹操は静かに聞く。
張燕は一歩前に出る。
「黒山の連中は殺させない」
「降伏兵は処刑しない」
「一般兵も解体じゃなく吸収」
「それが条件だ」
曹操はしばらく黙る。
そして小さく息を吐いた。
「いいわ」
即答だった。
張燕は一瞬だけ目を見開く。
「……いいのか?」
「ええ」
曹操は当然のように言う。
「あなたが来るなら、それで十分」
その言葉はあまりにも重い。
国家ではなく。
軍勢でもなく。
一人の男を中心に話が進んでいる。
張燕は苦笑する。
「お前な……」
「華琳ではなく曹操よ」
「どっちでもいい」
曹操は少しだけ目を細める。
「それで?」
張燕は息を吸う。
「もう一つ」
「何かしら」
「俺を説得役にさせろ」
曹操は眉を動かす。
「説得?」
「燕軍の連中にだ」
張燕は続ける。
「俺が直接行く」
「降伏の話をする」
「無駄な血は出させない」
曹操はしばらく黙る。
その視線は鋭い。
だが張燕は引かない。
数秒。
数十秒。
やがて曹操は小さく笑った。
「いいわ」
また即答だった。
張燕は少し呆れる。
「お前、意外と即決多いな」
「あなた相手にはね」
その言葉は柔らかかった。
だが同時に危うい。
曹操は立ち上がる。
一歩、張燕に近づく。
「時雨」
「なんだ」
「降伏するのね」
「ああ」
迷いはない。
曹操はその答えをじっと見つめる。
そして、静かに言う。
「なら私はあなたを受け入れる」
張燕は鼻で笑う。
「最初からそうしろよ」
「そうね」
曹操は微笑む。
だがその目はまだ揺れていない。
「でも覚えておきなさい」
「何をだ」
「あなたはもう“自由な狼”ではない」
張燕は黙る。
曹操は続ける。
「これからは“魏の中の時雨”よ」
その言葉は支配ではない。
宣言だった。
張燕はしばらく天井を見る。
そして――
「まあ、それでもいいか」
小さく呟いた。
その瞬間、曹操の目がわずかに和らぐ。
だがすぐにいつもの覇王の顔に戻る。
「では準備するわ」
「ああ」
張燕は頷く。
曹操は扉へ向かう。
その背中に、張燕はふと声をかける。
「華琳」
曹操が振り返る。
「何かしら」
「俺はさ」
一拍。
「まだお前のものじゃねぇからな」
曹操は一瞬だけ目を細める。
そして――
「ええ」
静かに笑った。
「知っているわ」
扉が閉まる。
部屋に残ったのは張燕だけ。
だがその孤独は、以前とは違っていた。
それは敗北者の孤独ではない。
選んだ者の静けさだった。
燕軍は降る。
だがそれは滅びではない。
新しい時代の入口だった。
そしてその中心には――
張燕という名の狼が、静かに立っていた。
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