【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第百五十二話 百万の帰順

第百五十二話 百万の帰順

 

 

 冀州・鄴。

 

 かつて河北の要衝として栄えたその城は、今や静かな緊張に包まれていた。

 

 空は曇り、冬の冷気が城壁を舐めるように流れている。

 

 その城の政庁で、張燕は一人立っていた。

 

 向かいには公孫瓚。

 

 燕王。

 

 そして、河北のもう一つの柱だった男。

 

「……本気なのか、時雨」

 

 公孫瓚の声は重かった。

 

 張燕は短く息を吐く。

 

「ああ」

 

 一言。

 

 それだけで十分だった。

 

 公孫瓚は視線を落とす。

 

 机の上には地図。

 

 そこには河北全域が描かれている。

 

 幽州、冀州、并州、青州――

 

 そのすべてが、今まさに大きな流れに呑み込まれようとしていた。

 

「魏に降る……か」

 

 公孫瓚は呟く。

 

 その言葉には怒りも否定もなかった。

 

 ただ、現実を飲み込む重さだけがあった。

 

 張燕は続ける。

 

「このまま戦っても、河北は持たない」

 

「曹操はもう止まらない」

 

 公孫瓚はゆっくりと顔を上げる。

 

「だから、お前は選んだのか」

 

「ああ」

 

 即答。

 

 迷いはない。

 

 その目はかつての賊の頭ではなく、一つの勢力を背負った者のそれだった。

 

「守るべきものが増えすぎた」

 

 張燕は静かに言う。

 

「人が死ぬのはもう見たくない」

 

 公孫瓚はしばらく黙っていた。

 

 そして小さく笑う。

 

「昔のお前なら言わなかったな」

 

「そうかもな」

 

 張燕も少しだけ笑う。

 

 だがその笑いはすぐに消える。

 

「白蓮」

 

 その名を呼ぶ。

 

 公孫瓚は目を細める。

 

「何だ」

 

「お前はどうする」

 

 沈黙。

 

 城の外で風が鳴る。

 

 やがて公孫瓚は静かに言った。

 

「私は燕王だ」

 

「そして、河北の民を預かる者だ」

 

 張燕は頷く。

 

 その先を待つ。

 

 公孫瓚は続ける。

 

「ならば答えは一つだ」

 

 一拍。

 

「お前と同じ道を行く」

 

 張燕は目を細める。

 

「いいのか」

 

「いいも悪いもない」

 

 公孫瓚は机に手を置く。

 

「ここで戦い続けても、民は疲弊するだけだ」

 

「曹操は敵ではない」

 

「少なくとも、今はな」

 

 張燕は小さく息を吐く。

 

「そうか」

 

 その言葉に、わずかな安堵が混じる。

 

 そして公孫瓚ははっきりと言った。

 

「燕国は、魏に降る」

 

 その瞬間、決まった。

 

 河北という巨大な地盤の意思が、一つに収束する。

 

――数日後。

 

 鄴の城門が開く。

 

 その光景は異様だった。

 

 整列する軍勢。

 

 旗は降ろされ、武器は納められている。

 

 しかしそれは敗残ではない。

 

 秩序ある帰順だった。

 

 前に立つのは張燕。

 

 その後ろに続くのは――

 

 将軍。

 

 兵士。

 

 文官。

 

 そして黒山の民。

 

 さらに河北の民を含む大規模な移動。

 

 その数。

 

 およそ――百万。

 

 それは軍勢ではなく、国家規模の流動だった。

 

 誰もが静かだった。

 

 泣く者も叫ぶ者もいない。

 

 ただ前へ進む。

 

 生きるために。

 

 守るために。

 

 選ばれた道として。

 

 その列の先頭で、張燕は歩いていた。

 

 その隣には公孫瓚。

 

「すごい数だな」

 

 公孫瓚が呟く。

 

 張燕は前を見たまま答える。

 

「多すぎるくらいだ」

 

「これを全部受け入れるのか?」

 

「曹操ならやる」

 

 即答だった。

 

 公孫瓚は少し笑う。

 

「信頼しているのか」

 

「してねぇよ」

 

 張燕は即座に否定する。

 

「ただ……あいつは計算が狂わない」

 

 公孫瓚はその言葉に頷く。

 

「なら安心だな」

 

 張燕は少しだけ笑う。

 

 そして遠くを見た。

 

 その先にあるのは魏の都・許昌。

 

 そして――曹操。

 

――許昌近郊。

 

 報告が届く。

 

 魏軍本営。

 

 その場にいたのは曹操。

 

 郭嘉。

 

 夏侯惇。

 

 夏侯淵。

 

 そして諸将。

 

「報告!」

 

 伝令が跪く。

 

「張燕軍、冀州・公孫瓚軍――」

 

 一拍。

 

「降伏の意志あり!」

 

 部屋の空気が揺れる。

 

 夏侯惇が驚く。

 

「百万だと!?」

 

 夏侯淵も目を細める。

 

「冀州全域が動いたか……」

 

 郭嘉は静かに笑う。

 

「やはりね」

 

 そして――

 

 曹操だけが、動かなかった。

 

 青い瞳が静かに細められる。

 

「来たのね、時雨」

 

 誰にも聞こえない声で呟く。

 

 そして立ち上がる。

 

「迎えに行くわ」

 

 その一言で、魏の空気が変わる。

 

 それは勝利ではない。

 

 征服でもない。

 

 ただ一つの事実だった。

 

 河北が、丸ごと動いた。

 

 そしてその中心にいる男は――

 

 魏へ向かって歩いている。

 

 覇王は静かに笑った。

 

「今度こそ、逃がさないわよ」




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