第百五十三話 百万の偽り
許昌へ向かう河北の大移動は、整然としていた。
それは敗残兵の行進ではない。
降伏の列であり、未来への移住でもある。
百万の人間が一つの意志で動くという異常な光景は、周辺諸侯にとっても異様な圧力となっていた。
だが、その整然さこそが――仕込みだった。
――鄴出立から数日後。
張燕は行軍の中心にいた。
公孫瓚と並び、先頭で隊列を導く。
その顔に焦りはない。
むしろ、静かな観察者の目だった。
「……順調すぎるな」
公孫瓚が小さく呟く。
張燕は前を見たまま返す。
「ああ、予定通りだ」
「予定通り?」
公孫瓚が眉をひそめる。
張燕はそこで初めてわずかに笑った。
「百万も動かせば、普通は混乱する」
「なのに、ここまで秩序があるのはおかしいと思わないか?」
公孫瓚は沈黙する。
確かに異常だった。
民衆、兵士、旧黒山の兵、河北諸侯の残党――
本来なら衝突が起きてもおかしくない混成部隊。
それが一糸乱れぬ。
「お前が抑えているのかと思っていたが……」
公孫瓚の言葉に、張燕は首を振る。
「違う」
「俺じゃない」
一拍。
「“最初から崩れていない”」
その言葉に、公孫瓚は目を細める。
「どういう意味だ」
張燕はようやく前から視線を外す。
その目は遠く、許昌の方角を見ていた。
「最初からこの行軍は“戦争”じゃない」
「移動でもない」
「“浸透”だ」
公孫瓚は息を呑む。
その瞬間、違和感の正体が形になる。
百万の人間はただ動いているのではない。
“配置されている”。
都市へ。
補給路へ。
魏の支配圏へ。
少しずつ、確実に。
公孫瓚が低く問う。
「……お前、最初からこれを?」
張燕は短く笑う。
「全部じゃない」
「だが、半分以上は最初から織り込み済みだ」
沈黙。
風が隊列の間を抜ける。
その音すら、張燕には計算の一部に見えていた。
――許昌。
魏軍本営。
曹操の元に報告が届く。
「報告!」
「河北軍百万、許昌へ向け進軍継続中!」
「秩序維持、混乱なし!」
夏侯惇が目を見開く。
「本当に全部来ているのか……?」
夏侯淵も冷や汗を浮かべる。
「補給はどうするつもりだ……百万だぞ……」
郭嘉は静かに扇を閉じる。
「面白いですね」
曹操は地図を見ていた。
動かない。
ただ一点を見つめる。
「時雨……」
小さく呟く。
その声にはわずかな違和感が混じっていた。
そして――
気づく。
遅い。
だが確実に。
「……これは降伏じゃない」
曹操の声が低くなる。
郭嘉が目を細める。
「華琳様?」
曹操はゆっくりと立ち上がる。
「違うわ」
「これは“侵入”よ」
――同時刻。
行軍中の張燕。
彼は静かに命令を下す。
「予定通りだ」
その一言で、空気が変わる。
公孫瓚が横を見る。
「何をする気だ?」
張燕は前を見たまま答える。
「兗州と豫州を取る」
一拍。
「この流れのまま」
公孫瓚の目が見開かれる。
「馬鹿な……! 曹操の本拠だぞ!」
張燕は笑う。
「だからだ」
その目には迷いがない。
「百万の民が動いている状態で、魏は全部を止められない」
「軍を戻せば前線が崩れる」
「前線を守れば本拠が空く」
公孫瓚は唇を噛む。
「それを狙っていたのか……」
張燕はようやく彼を見る。
「違う」
短い否定。
「“気づいたから利用している”だけだ」
その瞬間、公孫瓚は理解する。
張燕は最初から“降伏する気で動いていなかった”。
降伏は手段だった。
河北の移動も手段だった。
百万の民すら。
戦略の一部にすぎない。
――魏軍。
曹操は地図を睨む。
「兗州へ連絡!」
「即時防衛線を再編!」
「豫州も同時に固めなさい!」
夏侯惇が叫ぶ。
「華琳様! 間に合わない可能性が!」
曹操は一瞬だけ目を閉じる。
そして開く。
「分かっている」
静かな声。
だがそこには確かな怒りがあった。
「……時雨」
その名を噛みしめるように呟く。
「最初からこれが狙いだったのね」
郭嘉が小さく笑う。
「華琳様、どうなさいます?」
曹操は即答する。
「追うわ」
そして、冷たく言い切る。
「今度こそ、全部止める」
――河北軍。
行軍の最中。
張燕は空を見上げる。
「……気づいたか」
公孫瓚が問う。
「曹操は?」
「動く」
張燕は短く答える。
「だが遅い」
その言葉と同時に、遠くで軍旗が揺れる。
兗州方面へ向けて、既に別動隊が動き始めていた。
それは戦ではない。
侵食。
静かな制圧。
百万の行軍は、そのまま国境線そのものを塗り替えていく。
そしてその中心で――
張燕は確かに笑っていた。
「悪いな、華琳」
「これはもう、止まらねぇよ」
許昌へ向かう百万の列は、もはや降伏ではなかった。
それは一つの国家が動く音だった。
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