第百五十五話 新たなる燕
許昌。
かつて魏王曹操が天下へ号令を発した都。
中原最大の政治都市。
その城壁の上には、もはや魏の旗はなかった。
代わりに風にはためいているのは――燕の旗。
誰もが不可能だと思った。
誰もがあり得ないと思った。
河北から始まった一国が、天下最大の強国であった魏から兗州と豫州を奪い、その都までも手に入れるなど。
だが現実は目の前にあった。
許昌は陥落した。
兗州は燕の支配下。
豫州もまた燕の領土。
そして河北四州。
冀州。
幽州。
并州。
青州。
これらも健在である。
今や燕は天下最大級の国家へと成長していた。
許昌の王宮。
玉座の間。
そこには張燕が座っていた。
正確には座らされていた。
「だから嫌だって言ってるだろ」
張燕は頭を抱える。
その前には荀彧。
いや。
今や完全に張燕の軍師となった桂花がいた。
「時雨様は燕国最大の功臣です」
桂花は真面目な顔で言う。
「なら功臣でいい」
「駄目です」
「何でだよ」
「許昌を取ったのは誰ですか」
「俺」
「兗州を取ったのは」
「俺」
「豫州は」
「俺」
「なら黙って働いてください」
即答だった。
張燕は深いため息を吐いた。
その様子を見ていた張遼が大笑いする。
「はははは! 相変わらずやなぁ!」
張遼――霞。
元董卓軍の将。
今や燕軍の中核を担う存在。
隣では呂布が肉まんを食べている。
「むぐむぐ」
「恋、聞いてるか?」
「聞いてる」
「聞いてないだろ」
「肉まんおいしい」
いつも通りだった。
その横では趙雲が苦笑している。
「時雨」
「なんだ星」
「許昌は大きいな」
張燕も頷く。
「ああ」
大きい。
大きすぎる。
河北の城とは比較にならない。
人の数。
商人の数。
金の流れ。
兵站。
何もかもが別格だった。
ここを持つ者が天下へ近づく。
そう言われていた理由がよく分かる。
荀彧が地図を広げる。
「現在の領土です」
広大な地図。
河北四州。
兗州。
豫州。
そして許昌。
ほぼ北中国の大半が燕の支配下にある。
張燕は腕を組んだ。
「増えたな」
「増えすぎです」
桂花が即答する。
「文官が足りません」
「兵も足りません」
「行政官も足りません」
「金も足りません」
「おい最後おかしいだろ」
「許昌の復興に金が飛びます」
桂花は容赦がない。
だが間違ってもいない。
張燕は頭を掻いた。
「つまり忙しいと」
「死ぬほど忙しいです」
桂花は断言した。
そして机を叩く。
「だから働いてください!」
「嫌だ」
「働け!」
いつものやり取りだった。
趙雲が笑う。
張遼も笑う。
呂布は肉まんを食べている。
そんな空気が少しだけ張り詰めた会議を和らげていた。
だが。
楽観できる状況ではない。
張燕は再び地図を見る。
その先。
西。
そこにある勢力を。
「曹操か」
その名を口にする。
部屋の空気が変わる。
曹操は生きている。
夏侯惇も。
夏侯淵も。
郭嘉も。
主力はほとんど残っている。
国を失っただけだ。
軍を失ったわけではない。
趙雲が静かに言う。
「曹操は必ず戻ってくる」
「ああ」
張燕も同意した。
あの女が諦めるはずがない。
むしろここからが本番だ。
国を失った覇王ほど恐ろしい存在はいない。
張遼が笑う。
「まぁ来たら返り討ちや」
「そう簡単じゃねぇ」
張燕は首を振る。
そして立ち上がった。
玉座の間を歩く。
大きな窓から許昌の街を見下ろす。
活気がある。
商人が行き交う。
民が笑う。
子供が走る。
戦乱の中でも、人は生きている。
「守らなきゃな」
ぽつりと呟く。
趙雲が聞いていた。
「何をだ?」
「全部だ」
張燕は答える。
「河北も」
「許昌も」
「兗州も」
「豫州も」
「ここで暮らす人間も」
それは昔の張燕なら言わなかった言葉だった。
黒山賊の頭領。
賊。
反逆者。
そんな男だった。
だが今は違う。
国を持った。
人を預かっている。
だからこそ責任がある。
趙雲はその背中を見つめる。
そして少しだけ微笑んだ。
「変わったな、時雨」
「そうか?」
「ああ」
張燕は笑う。
「俺は俺だよ」
「違うさ」
趙雲は静かに言った。
「昔のお前なら国なんてどうでもよかった」
「今は違う」
張燕は答えなかった。
だが否定もしなかった。
窓の外には広大な許昌。
その向こうには燕の領土。
そしてさらに西には、再起を図る曹操がいる。
天下はまだ定まっていない。
戦いも終わっていない。
だが一つだけ確かなことがあった。
河北の賊だった男は今や天下を揺るがす大国の中心に立っている。
許昌の空を見上げながら張燕は小さく笑った。
「さて」
「次はどうするかな」
その問いに答えられる者はいない。
だが燕は進む。
新たな時代の中心として。
そしてその先で、再び曹操との運命が交わることになるのだった。
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