第百五十六話 動き出す天下
天下は再び動き始めていた。
一つの戦が終わったからといって平穏が訪れるわけではない。
むしろ、大国同士の均衡が崩れた今こそ、新たな争いの火種は各地で燃え始めていた。
かつて魏王曹操が支配した許昌。
その都は今や燕国の支配下にある。
河北四州に加え、兗州、豫州、そして中原の要衝である許昌までも手に入れた燕国は、天下最大の勢力へと成長していた。
だが、その裏で敗れた覇王もまた終わってはいなかった。
長安。
かつて前漢の都として栄えた西方最大の都市。
その城壁の上には新たな魏の旗が翻っている。
許昌を失った曹操は残存兵力をまとめ上げ、西方へ撤退した。
そして長安を新たな都として再出発していた。
長安城内。
政庁では重い空気が流れていた。
夏侯惇。
夏侯淵。
郭嘉。
そして曹操。
かつての魏の中核が集まっている。
だが以前のような余裕はなかった。
「……兗州」
曹操が静かに呟く。
青い瞳が地図を見つめている。
「豫州」
さらに続ける。
「許昌」
失った土地の名前。
それは単なる領土ではない。
魏という国の根幹だった。
郭嘉が苦笑する。
「痛いですね」
「ええ」
曹操は素直に認めた。
痛いなどという言葉では済まない。
致命傷に近い。
許昌は政治の中心。
兗州は兵站。
豫州は中原支配の要。
その全てを失った。
夏侯惇が拳を握る。
「華琳様……」
曹操は首を振る。
「いいのよ春蘭」
その声は静かだった。
怒りも焦りもない。
ただ冷静だった。
それが逆に恐ろしい。
「私は負けた」
誰も何も言わない。
否定できない。
事実だからだ。
官渡で勝った。
張燕を捕らえた。
そこまでは完璧だった。
だが結果として失ったのは自分だった。
曹操は椅子に深く腰掛ける。
「……最初からだったのね」
ぽつりと呟く。
夏侯淵が顔を上げる。
「華琳様?」
曹操は笑った。
自嘲気味に。
「官渡の時からよ」
一同が黙る。
曹操は続ける。
「私はあの男を欲しがった」
「捕まえた」
「手に入れたと思った」
そして――
「気づけば私が利用されていた」
部屋に沈黙が落ちる。
郭嘉だけが小さく笑った。
「らしいですね」
「ええ」
曹操は認めた。
悔しい。
本当に悔しい。
だが怒りよりも強い感情があった。
それは感心だった。
「時雨」
その名を呼ぶ。
今は敵。
だが。
「やはりあなたは面白い」
青い瞳が静かに細められる。
「次は負けないわ」
その声には確かな闘志が宿っていた。
覇王はまだ終わらない。
むしろここからだった。
一方その頃。
蜀。
成都。
南方の平定を終えた劉備軍は、新たな段階へ進んでいた。
南蛮。
山岳地帯。
異民族の地。
長年にわたり中央勢力を悩ませてきた地域。
それを蜀は制圧した。
後顧の憂いは消えた。
そして今。
軍議の中心にいるのは一人の少女だった。
諸葛亮。
真名を朱里。
蜀を支える天才軍師。
その前には巨大な地図が広げられている。
劉備。
関羽。
張飛。
北郷一刀。
蜀の重臣たちが集まっていた。
「ついにですね」
朱里が静かに言う。
その瞳は真剣だった。
「北伐を開始します」
部屋の空気が変わる。
蜀の悲願。
中原進出。
その第一歩だった。
劉備は頷く。
「みんな、お願いね」
柔らかな声。
だが王としての覚悟もある。
北郷一刀は腕を組んでいた。
その目は地図を見ている。
長安。
許昌。
燕。
魏。
呉。
天下は大きく動いている。
「いよいよ三国が本格的にぶつかるな」
一刀は呟く。
そして心の中では別のことも考えていた。
張燕。
あの男。
歴史には存在しない異物。
だが今や天下最大の存在。
「……お前は何者なんだ」
誰にも聞こえない声だった。
さらに南。
交州。
熱帯の大地。
長年中央の支配が及ばなかった辺境。
そこに呉軍の旗が翻っていた。
孫策は勝利していた。
交州征服。
その報告は建業に歓喜をもたらしている。
城壁の上。
風を受けながら孫策は笑った。
「勝ったわね」
隣には周瑜。
冥琳が立っている。
「ええ」
「見事な勝利でした」
孫策は空を見上げた。
青空が広がる。
「これで約束を果たせる」
その言葉に冥琳は微笑む。
かつて張燕と交わした約束。
交州を手に入れたら。
その先の話。
孫策は少しだけ頬を緩めた。
「時雨、元気かしらね」
その声はどこか柔らかい。
戦場の覇者ではなく、一人の女性の顔だった。
そして。
許昌。
燕国。
張燕は城壁の上から空を見上げていた。
西には長安。
南には蜀。
東南には呉。
天下の全てが動いている。
荀彧が近づいてくる。
「時雨様」
「ん?」
「各地の報告です」
張燕は受け取る。
長安の曹操。
北伐を始める蜀。
交州を制した呉。
全てが書かれていた。
そして張燕は静かに笑う。
「面白くなってきたな」
天下は再び大きく動く。
燕。
魏。
蜀。
呉。
四つの巨大勢力。
その中心で。
かつて黒山賊と呼ばれた男は、静かに次の時代を見つめていた。
戦乱は終わらない。
むしろ今こそ、本当の天下争奪戦が始まろうとしていた。
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