第百五十九話 帰ってきた小覇王
許昌の朝は早い。
かつて魏の都として栄えたこの都市は、燕の支配下となった今も活気に満ちていた。
商人達の呼び声。
市場を行き交う人々。
巡回する兵士達。
戦乱の時代でありながら、この街には不思議な安定があった。
その理由を問われれば、多くの者が同じ名前を挙げるだろう。
張燕。
黒山賊の頭領。
燕の英雄。
そして今や中原を支配する男。
もっとも当人は。
「眠い……」
執務室の机に突っ伏していた。
「働け」
即座に飛んできた声。
趙雲だった。
今日も容赦がない。
張燕は顔だけ上げる。
「星」
「なんだ」
「俺は働いてるぞ」
「寝ている」
「目を閉じて考えてた」
「嘘をつけ」
ぺしり。
頭を叩かれる。
そんな平和な光景が続いていたその時だった。
王宮の外が妙に騒がしい。
いや。
妙どころではない。
「おおおおおおおおっ!!」
「頭領ぉぉぉぉぉ!!」
「祭りだぁぁぁぁ!!」
ものすごい歓声が聞こえてきた。
張燕と趙雲は顔を見合わせる。
「何だ?」
「さあな」
そして次の瞬間。
部屋の扉が勢いよく開いた。
張遼だった。
「大変や時雨!」
「敵襲か?」
「ちゃう!」
張遼は満面の笑みを浮かべる。
「江東の小覇王が来た!」
その言葉に張燕が固まった。
「……は?」
許昌南門。
そこには大勢の人々が集まっていた。
黒山軍の兵士達。
役人達。
商人達。
皆が興奮している。
その中心。
白馬から降りた一人の女性がいた。
長い桃色の髪。
太陽のような笑顔。
誰よりも自由で。
誰よりも豪快な女性。
孫策。
雪蓮。
かつて呉王と呼ばれた女性だった。
「久しぶりね!」
高らかな声が響く。
途端に歓声が爆発した。
「孫策様だぁぁぁ!!」
「お帰りなさい!!」
「頭領の奥方だ!!」
「宴会だぁぁぁ!!」
黒山軍は大騒ぎだった。
そもそも張燕と孫策の婚姻は黒山軍にとって最大級の祝い事だった。
その本人が帰ってきたのである。
盛り上がらないわけがない。
孫策は豪快に笑う。
「相変わらず元気ねぇ」
そして。
人混みをかき分けるように一人の男が現れた。
「騒がしいと思ったら……」
張燕だった。
雪蓮は一瞬だけ目を細める。
次の瞬間。
「時雨ーっ!」
駆け出した。
「お、おい」
止める間もなかった。
勢いそのまま。
どーん!
張燕へ飛びつく。
「久しぶり!」
「ぐはっ!」
見事な体当たりだった。
黒山軍が大歓声を上げる。
「おおおおお!!」
「やったぁぁぁ!!」
「夫婦再会!!」
祭り状態だった。
張燕は何とか立ち直る。
「王位はどうした」
「譲った」
即答。
「蓮華に任せたわ」
まるで散歩にでも行ってきたような口調だった。
「だから来た」
にっこり。
満面の笑み。
張燕は頭を抱えた。
「絶対それだけじゃないだろ」
「もちろん」
雪蓮は笑う。
「時雨に会いたかったから」
黒山軍がさらに盛り上がる。
「おおおおお!!」
「言ったぁぁぁ!!」
「流石奥方様!!」
もはや収拾がつかない。
一方。
少し離れた場所。
趙雲は静かにその様子を見ていた。
周囲の熱狂とは違う。
どこか複雑そうな顔。
張遼が横から声をかける。
「星」
「なんだ」
「難しい顔しとるな」
趙雲は苦笑した。
「別に」
「嘘やな」
張遼は笑う。
長い付き合いだ。
分かる。
趙雲は視線を逸らした。
「……孫策殿は良い女性だ」
「せやな」
「時雨ともお似合いだ」
「せやな」
「だから問題ない」
「問題ある顔しとるで」
図星だった。
趙雲は黙る。
胸の奥が少しだけ痛む。
昔から一緒に戦ってきた。
黒山でも。
河北でも。
官渡でも。
そして今も。
誰より近くで張燕を見てきた。
だからこそ。
複雑だった。
雪蓮が嫌いなわけではない。
むしろ好ましい女性だと思っている。
だが。
感情というものは理屈で割り切れるものではなかった。
張遼がぽんと肩を叩く。
「難儀やな」
「うるさい」
「ははは」
張遼は笑った。
そして前を見る。
そこでは雪蓮が張燕の腕に抱きついていた。
張燕は困り顔。
雪蓮は楽しそう。
黒山軍は大歓喜。
いつもの光景だった。
その夜。
許昌では盛大な宴が開かれた。
雪蓮の帰還。
交州征服。
呉王位継承。
祝い事はいくらでもある。
酒が飛び交う。
笑い声が響く。
そしてその中心には。
張燕と孫策がいた。
雪蓮は上機嫌だった。
「やっぱりここが一番楽しいわね」
そう言って笑う。
張燕は苦笑する。
「呉の連中が泣くぞ」
「大丈夫よ」
雪蓮は酒を飲みながら答えた。
「蓮華も冥琳も優秀だもの」
そして。
ちらりと張燕を見る。
「だから私は自由」
その笑顔はどこまでも晴れやかだった。
遠くでその姿を見る趙雲。
複雑な気持ちはまだ消えない。
だが。
それでも。
張燕が笑っているなら。
それでいい。
そう思う自分もいた。
宴は深夜まで続く。
許昌の夜空に笑い声が響く。
そして帰ってきた小覇王は、まるで最初からそこにいたかのように自然に燕の日常へ溶け込んでいくのだった。
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