第百六十二話 新婚旅行の行き先
許昌の王宮では、最近ある光景が日常になっていた。
それは燕の兵士達ですら見慣れてしまった光景だった。
「時雨ー」
朝。
執務室。
書類の山を前に座る張燕の背中に、桃色の長髪を揺らしながら孫策が抱きつく。
「仕事中だ」
「知ってる」
「離れろ」
「嫌」
即答だった。
張燕はため息を吐く。
だが孫策は気にしない。
むしろ嬉しそうだった。
許昌へ来てからというもの、孫策は張燕にべったりだった。
昼は抱きつく。
移動中も隣にいる。
会議にも顔を出す。
食事も一緒。
そして夜になるとさらに酷かった。
「時雨ー」
ある夜。
張燕が眠ろうとしていた時だった。
部屋の扉が開く。
「おい」
「来たわよ」
「何しに」
「寝る」
当然のように言う。
そして当然のようにベッドへ潜り込む。
「自分の部屋あるだろ」
「あるわね」
「なら帰れ」
「嫌」
即答だった。
張燕は頭を抱える。
孫策は満面の笑みで布団へ潜り込んでいた。
「夫婦だもの」
「だから何だ」
「一緒に寝る」
理屈になっていない。
だが本人は真面目だった。
結局その日も張燕は押し切られた。
さらに数日後。
「何でいるんだ」
「お風呂」
「見れば分かる」
「そうじゃない」
湯船の中。
張燕が振り返る。
そこには当然のように湯へ浸かる孫策がいた。
「お前の風呂は向こうだろ」
「広いじゃない」
「そういう問題じゃない」
孫策は笑う。
楽しそうに。
まるで悪戯が成功した子供のようだった。
「時雨は細かいわね」
「お前が大雑把なんだ」
「そうかも」
否定しない。
そんな日々が続いていた。
そして。
ある日の昼。
王宮の庭園。
張燕は木陰で寝転がっていた。
当然のように孫策も隣にいる。
いや。
隣どころではない。
腕を抱えていた。
「暇ね」
「天下は動いてるぞ」
「ここは平和」
その通りだった。
西では北伐。
長安では曹操。
成都では諸葛亮。
建業では孫権。
だが許昌だけは妙に平和だった。
孫策は空を見上げる。
「ねえ時雨」
「なんだ」
「新婚旅行したい」
突然だった。
張燕は思わず吹き出しそうになる。
「今か?」
「今」
「天下大戦中だぞ」
「だから?」
まるで気にしていない。
流石は孫策だった。
張燕は苦笑する。
だが。
ふと面白いことを思いついた。
「なあ雪蓮」
「ん?」
「旅行するか」
孫策の目が輝く。
「本当?」
「ああ」
「どこ行くの?」
普通なら温泉だろう。
景勝地だろう。
海だろう。
だが張燕は張燕だった。
口元を少しだけ歪める。
「蜀」
一瞬。
孫策が固まる。
「……は?」
「蜀」
「聞こえた」
孫策は首を傾げる。
「何で?」
張燕は笑う。
「見に行こうぜ」
「何を?」
「北伐」
孫策が数秒黙った。
そして。
大笑いした。
「ははははは!」
庭園に笑い声が響く。
「それ新婚旅行じゃない!」
「そうか?」
「戦場見学じゃない!」
確かにその通りだった。
だが張燕は真面目だった。
「気になるんだよ」
「天の御使い?」
「ああ」
孫策も少し真面目な顔になる。
天の御使い。
北郷一刀。
劉備を急成長させた男。
張燕と同じく歴史を変えている存在。
「確かに見てみたいわね」
「だろ」
「あと曹操もいるし」
その名前に張燕は頷く。
華琳。
覇王。
今なお西で戦う最大の敵。
彼女がどのように蜀を迎え撃つのか。
それも興味深かった。
孫策は考える。
そして。
にやりと笑った。
「面白そう」
「だろ」
「行きましょう」
即決だった。
張燕も笑う。
こういう所が孫策らしい。
普通の新婚旅行など求めない。
面白いこと。
楽しいこと。
それを追い求める。
「誰連れてく?」
「二人」
「護衛なし?」
「その方が面白い」
孫策は豪快に笑った。
そして張燕の腕を引く。
「決まり!」
「おい早い」
「善は急げ!」
その様子を遠くから見ていた趙雲は嫌な予感を覚えていた。
隣では荀彧が額を押さえている。
「まさか」
「まさかやな」
張遼も苦笑する。
呂布は肉まんを食べていた。
そして数日後。
許昌では衝撃の報告が流れることになる。
張燕。
孫策。
二人が突然姿を消したと。
もっとも当人達は慌てていなかった。
ただ新婚旅行と称して。
天下最大の戦場へ向かっているだけだった。
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