第百六十三話 戦場への新婚旅行
許昌から姿を消した張燕と孫策は、まるで旅慣れた商人夫婦のような格好で街道を進んでいた。
もちろん、本当に商人ではない。
片方は燕国最大の功臣にして黒山軍の頭領。
もう片方は元呉王である。
本来なら数千の護衛に囲まれていてもおかしくない二人だった。
だが本人達は気にしていなかった。
むしろ楽しそうだった。
「新婚旅行ねぇ」
馬の上で張燕が呟く。
「そうよ」
孫策が笑う。
「普通は温泉とか行くんじゃないのか?」
「普通じゃないから面白いのよ」
即答だった。
張燕は苦笑する。
確かにその通りだった。
普通の夫婦なら景色を楽しみ、美味い物を食べてのんびりする。
だが自分達が向かっているのは戦場である。
しかも天下の命運を左右する北伐の最前線だ。
我ながらどうかしている。
しかし孫策は上機嫌だった。
「楽しみね」
「何がだ」
「曹操と天の御使い」
その名前に張燕も少し真面目な顔になる。
北郷一刀。
天の御使い。
劉備を短期間で天下有数の勢力へ押し上げた男。
そして。
曹操。
覇王。
許昌を失ってなお立ち上がる怪物。
どちらも興味深い。
「直接見る機会なんて滅多にないからな」
「でしょ?」
孫策は楽しそうに笑った。
そんな会話をしながら数日。
二人は徐々に蜀と魏の国境付近へ近づいていった。
進むにつれて空気が変わる。
街道を歩く兵士。
荷車を引く補給部隊。
伝令。
避難民。
戦争の匂いが強くなっていく。
そしてある日の夕方。
二人は小高い丘へ辿り着いた。
「見えた」
張燕が言う。
孫策も視線を向ける。
その先。
平原の向こう。
無数の天幕が並んでいた。
旗が見える。
緑を基調とした旗。
蜀軍。
劉備軍だった。
「凄い数ね」
孫策が感心する。
数万。
いや十万近い。
壮大な軍勢だった。
張燕は腕を組む。
「朱里の仕事だな」
「兵站も綺麗」
「ああ」
天幕の配置。
補給線。
警戒網。
どれも整っている。
軍師の力量が見て取れた。
そしてさらに遠く。
別方向にも軍勢がいる。
こちらは青い旗。
魏軍。
曹操軍だった。
「華琳もいるな」
張燕は静かに呟く。
正面からぶつかり合う二つの巨大勢力。
まさに天下を揺るがす決戦だった。
孫策は目を輝かせる。
「凄いわね」
「ああ」
「これが今の天下」
張燕も同意した。
燕。
魏。
蜀。
呉。
四大勢力。
そのうち二つがここで激突している。
しばらく二人は無言で見つめていた。
そして。
張燕は不意に笑う。
「行くか」
「どこに?」
「近くまで」
孫策が目を丸くする。
「まさか潜り込む気?」
「その方が面白いだろ」
一瞬。
沈黙。
次の瞬間。
孫策は盛大に笑った。
「ははははは!」
腹を抱えて笑う。
「最高ね!」
「だろ?」
「やりましょう!」
即決だった。
この二人に常識は通用しない。
天下の命運が懸かった戦場。
そこへ観光気分で潜り込もうとしているのである。
普通なら自殺行為だ。
だが。
張燕は張燕だった。
黒山賊として生きてきた男。
潜入。
偵察。
変装。
それらは得意中の得意だった。
孫策もまた豪胆だった。
危険だからやめるという発想がない。
「まずは蜀?」
「いや」
張燕は笑う。
「先に魏だな」
その言葉に孫策も頷く。
「確かに」
「華琳の方が面白そう」
二人は顔を見合わせる。
そして同時に笑った。
まるで悪戯を企む子供のように。
その頃。
長安では曹操が蜀軍との決戦準備を進めていた。
成都では北郷一刀と諸葛亮が作戦を練っていた。
誰も知らない。
まさか天下の一角を担う張燕と元呉王孫策が、新婚旅行と称して戦場見学に来ているなど。
そして。
二人の存在が思わぬ形で戦局へ関わることになるのは、まだ少し先の話であった。
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