第百六十四話 劣勢の覇王
蜀の北伐が本格的に始まってから、一ヶ月が過ぎていた。
戦況は誰の目にも明らかだった。
優勢なのは蜀。
劣勢なのは魏。
長安周辺では幾度も戦が繰り返されていたが、その度に蜀軍が成果を積み重ねていた。
諸葛亮の兵站。
龐統の策。
そして天の御使いである北郷一刀が持ち込む常識外れの知識。
それらが合わさった蜀軍は、恐ろしいほど効率的に動いていた。
兵糧は尽きない。
兵は疲弊しない。
補給路は守られ続ける。
まるで巨大な機械のような軍だった。
一方の魏軍も弱くはない。
曹操。
夏侯惇。
夏侯淵。
郭嘉。
名将達が揃っている。
それでも苦しい。
許昌を失った影響は大きかった。
中原最大の穀倉地帯を失い、兵力補充も以前ほど容易ではない。
長安を中心に再建したとはいえ、勢いという意味では蜀が圧倒していた。
そんな戦場を見下ろす丘の上で、張燕と孫策は並んで座っていた。
眼下では戦が行われている。
旗が揺れ。
太鼓が鳴り。
兵達がぶつかる。
まさに天下を揺るがす大戦だった。
「蜀が押してるわね」
孫策が言う。
張燕は黙って頷いた。
「強いな」
「劉備?」
「違う」
張燕は戦場を見る。
「天の御使いだ」
孫策も視線を向ける。
遠く。
蜀軍本陣。
そこにいるはずの男。
北郷一刀。
「確かに」
孫策も認めた。
「普通じゃないわね」
普通の軍師ではない。
普通の王でもない。
未来を知る者。
この時代に存在してはならない知識を持つ男。
その影響は戦場のあらゆる場所に現れていた。
補給。
兵站。
組織運営。
軍制。
どれも時代を先取りしている。
「厄介だな」
張燕は呟いた。
孫策は笑う。
「時雨が言うと説得力ないわね」
「何でだ」
「あなたも十分厄介だから」
それには反論できなかった。
しばらく二人は戦場を見ていた。
そして。
張燕が立ち上がる。
「行くか」
「どこへ?」
「華琳の所」
孫策が吹き出した。
「本当に行くの?」
「せっかく来たんだ」
張燕は笑う。
「顔くらい見たいだろ」
「確かに」
孫策も立ち上がった。
そして二人は丘を下りていく。
魏軍本陣。
そこには重い空気が漂っていた。
伝令が走る。
将軍達が怒鳴る。
兵達の顔にも疲労が見えていた。
決して敗北したわけではない。
だが押されている。
その事実は誰もが理解していた。
本陣中央。
地図を見つめる曹操の表情は冷静だった。
焦りはない。
しかし余裕もない。
「左翼は?」
「後退しました」
「右翼は?」
「持ちこたえています」
報告が続く。
曹操は静かに考える。
蜀は強い。
予想以上に。
そして何より。
「北郷一刀……」
その名前を呟く。
許昌を失った後も、彼女は各地の情報を集めていた。
だからこそ分かる。
蜀の急成長。
その中心にいる男の異常さを。
「面白い男ね」
そう言った時だった。
「そうか?」
突然声がした。
本陣の空気が凍りつく。
兵士達が一斉に武器を構える。
夏侯惇が剣を抜く。
「誰だ!」
その先。
本陣入口に二人の人影が立っていた。
一人は黒髪の青年。
一人は桃色の長髪の美女。
そして。
曹操が立ち上がった。
「……時雨」
青い瞳が大きく見開かれる。
「孫策」
孫策は笑顔で手を振った。
「久しぶり」
夏侯惇達は唖然としている。
なぜいる。
どうやって入った。
警備は何をしていた。
誰も理解できない。
張燕は肩を竦めた。
「観光だ」
「戦場を観光地にするな!」
夏侯惇が怒鳴った。
もっともだった。
だが張燕は気にしない。
孫策も笑っている。
曹操だけが小さく笑った。
「相変わらずね」
「お前もな」
二人は向かい合う。
かつて敵として戦った者同士。
そして奇妙な縁で結ばれた者同士。
しばらく沈黙が続く。
やがて曹操が言った。
「見ての通りよ」
その声に悔しさはなかった。
「苦戦している」
「そうだな」
「でも負けるつもりはない」
張燕は笑った。
「知ってる」
それが曹操だ。
どれだけ追い詰められても折れない。
だからこそ恐ろしい。
孫策も腕を組む。
「天の御使いは強いわね」
その言葉に曹操の目が細くなる。
「ええ」
「認めるわ」
曹操は素直だった。
「北郷一刀は危険よ」
ただの男ではない。
ただの軍師でもない。
時代そのものを変える存在。
張燕は静かに頷く。
「やっぱりそう思うか」
「当然よ」
曹操は笑う。
「でも」
一拍置く。
「だからこそ面白い」
覇王の目だった。
劣勢。
苦境。
それでもなお燃えている。
張燕はその顔を見て納得した。
まだ終わらない。
この女は。
まだ負けていない。
「なるほどな」
張燕は笑った。
「やっぱり華琳は華琳だ」
曹操も微笑む。
その笑顔はどこか嬉しそうだった。
戦場の真ん中。
蜀と魏が激突する中で。
覇王と黒山賊は久しぶりに顔を合わせていた。
そして二人とも理解していた。
今、天下の中心にいるのは劉備でも曹操でもない。
その背後にいる。
天の御使い。
北郷一刀という存在なのだと。
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