第百六十九話 天下三分の夢
蜀軍本陣での滞在は張燕にとって予想以上に興味深いものになっていた。木牛流馬という新たな兵站技術。天の御使いである北郷一刀の知識。そして諸葛亮や龐統が作り上げた軍の仕組み。そのどれもが張燕の好奇心を刺激していた。
そんなある日の夕方だった。
戦のない静かな日。
夕焼けが蜀軍本陣を赤く染めていた。
張燕は丘の上に座り、遠くの山々を眺めていた。
隣には孫策がいる。
当然のように肩へ寄り掛かっていた。
「平和ね」
孫策が呟く。
「戦場の近くとは思えんな」
張燕も同意する。
その時だった。
後ろから足音が聞こえた。
振り返る。
そこにいたのは劉備だった。
桃色の髪を風になびかせながら微笑んでいる。
「時雨さん」
「桃香か」
「少しお話いいですか?」
いつもの穏やかな声だった。
だがどこか真剣さも感じる。
張燕は頷いた。
「いいぞ」
劉備は二人の近くへ座った。
しばらく沈黙が流れる。
夕焼けを見ながら三人は静かに過ごした。
やがて劉備が口を開く。
「時雨さん」
「何だ」
「もしもの話なんですけど」
張燕は横目で見る。
劉備は少し緊張しているようだった。
「蜀と燕で同盟を結びませんか?」
張燕は黙った。
孫策も少し目を細める。
予想外ではない。
だが軽い話でもない。
天下の勢力図を左右する話だ。
「理由は?」
張燕は短く尋ねる。
劉備は迷わなかった。
「平和のためです」
その言葉に張燕は苦笑した。
実に劉備らしい。
だが。
それだけではないはずだった。
「続けろ」
劉備は頷く。
そして遠くの空を見た。
「ご主人様が教えてくれたんです」
その言葉に張燕は反応した。
ご主人様。
北郷一刀。
天の御使い。
「天下三分の計」
劉備は静かに語る。
「蜀」
「呉」
「そして燕」
張燕の目が少し細くなる。
孫策も興味深そうに聞いている。
劉備は続けた。
「三つの国が均衡を保つんです」
「誰かが天下を統一しようとすれば残り二国が止める」
「お互いが支え合う」
「争いを最小限にする」
「そして平和な時代を作る」
夕風が吹いた。
張燕は何も言わない。
劉備も続ける。
「今の天下は大きすぎます」
「誰か一人が全てを治めれば必ず無理が出ます」
「でも三つなら」
「お互い協力できると思うんです」
それは理想だった。
実に劉備らしい理想。
そして。
北郷一刀らしい発想でもあった。
張燕は空を見上げた。
蜀。
呉。
燕。
確かに勢力としては十分だ。
蜀は益州と荊州。
呉は揚州と交州。
燕は河北四州に加えて中原。
巨大な三勢力。
均衡は取れている。
だが。
張燕は知っていた。
理想だけでは世の中は回らない。
「華琳はどうする」
その一言で空気が変わった。
劉備も答えに詰まる。
曹操。
覇王。
今も西で戦い続ける女。
天下三分の計に彼女の居場所はない。
「……」
沈黙。
やがて劉備は静かに言った。
「できれば」
「戦いたくありません」
張燕は苦笑した。
「それは無理だな」
「……はい」
劉備も分かっている。
曹操は諦めない。
降伏もしない。
最後まで戦う。
それが覇王だ。
「でも」
劉備は顔を上げた。
「それでも私は平和を目指したいんです」
「皆が笑える時代を」
「戦で泣く人がいない時代を」
真っ直ぐだった。
昔と変わらない。
理想家。
夢を見る少女。
それが劉備だった。
張燕は少しだけ懐かしい気持ちになる。
公孫瓚軍にいた頃。
まだ何も持っていなかった頃。
桃香はいつも同じことを言っていた。
平和な国を作りたい。
皆が笑える世の中にしたい。
その夢は今も変わっていない。
王になっても。
国を持っても。
変わらなかった。
「時雨さん」
劉備が見つめる。
「私は燕と争いたくありません」
「だから」
「同盟をお願いします」
真っ直ぐな視線だった。
張燕はしばらく考える。
そして。
ふっと笑った。
「相変わらずだな」
劉備が首を傾げる。
「え?」
「夢ばかり見てる」
「うっ」
少し傷付いた顔になる。
孫策が吹き出した。
「確かに」
「孫策さんまで!?」
二人は笑う。
劉備は少し膨れた。
だが。
張燕は真面目な顔になる。
「悪い話じゃない」
劉備の目が大きくなる。
「本当ですか?」
「ああ」
張燕は頷く。
少なくとも現状。
燕と蜀は争う理由が少ない。
むしろ共通の敵がいる。
魏だ。
そして。
張燕自身。
劉備を嫌ってはいない。
昔から知っている仲間でもある。
「ただし」
張燕は指を立てる。
「俺一人では決められん」
「燕王は白蓮だ」
公孫瓚。
燕王。
河北の主。
最終的な判断は彼女になる。
劉備も理解していた。
「それでも」
「考えてくれるんですか?」
「ああ」
張燕は頷く。
「話くらいは持って帰る」
その言葉を聞いた瞬間。
劉備は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
昔と変わらない笑顔だった。
その様子を見ながら張燕は思う。
天の御使いが現れたことで歴史は大きく変わった。
だが。
桃香だけは変わらない。
理想を追い続ける。
平和を願い続ける。
その真っ直ぐさだけは昔のままだった。
夕日はゆっくり沈んでいく。
蜀軍本陣の上空を赤く染めながら。
そして張燕は静かに考えていた。
天下三分の計。
蜀。
呉。
燕。
果たしてそれは夢物語なのか。
それとも。
本当に新しい時代への道なのか。
その答えはまだ誰にも分からなかった。
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